あの町からこの村から
人情産婆さん,他
pp.32-33
発行日 1957年1月1日
Published Date 1957/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201192
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愛媛県大洲市菅田支所の保健婦浜田カツヨさん(50)は,大正12年,松山の産婆養成所を卒業して10年ほど別子の住友病院で働き,昭和10年菅田に帰郷,同16年から当時の菅田村の保健婦を兼職した.それから15年,浜田さんは村の保健婦として産婆として村内をかけ回つた.
"お産をする家"ここには偽ることのできない人生の縮図が秘められていた.金にあかして一流病院の産室でする家庭もあれば,納屋のように暗い部屋で,むしろのようなタタミのうえでお産をする家庭もある.「オムツの代りもないような家には私の家のボロをひとたばにしてオムツの代りにしてくれといつて持つて行つてあげるんです……」16年,主人が戦病死したあと長男武貞君(23)をかかえて月給で働いている浜田さんにとつてこれは精一杯の誠意だろう.主人が残していつた武貞君は,浜田さんの実子ではない.しかも3歳のとき小児マヒにかかりこの子を育てあげる浜田さんの苦労は一通りでない.複雑な家庭の中に浜田さんは生きる苦しさをしみじみ味わされた.「他人の苦しみを分けてもらう……」これは浜田さんが50年の苦しい生活の中から得た真実の人生観だつた.普通産婆の料金は規定からいえば1人の子供をとりあげれば千円位にはなるが,浜田さんは全くの無料奉仕に終つてしまうこともしばしばだという.しかし「一番大事な命をまかせてもらうという責任と感謝の気持で一杯です.
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