ひと
WCPT加盟の念願を果たした理学療法士のパイオニア―東京都養育院付属病院理学療法科長 村松 秩(まつむら・さとし)氏
芳賀 敏彦
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1国立療養所東京病院・附属リハビリテーション学院
pp.682
発行日 1975年8月10日
Published Date 1975/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1552103388
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日本で初めての理学療法士の教育機関である私共の学院の第1回の入学生はなかなか特色のある人達であった.その中ですでに青年紳士の風格があったのが松村秩氏である.立命館大学の理工学部から文学部を経て卒業後3力年大阪の証券会社で働いており,そのまま行っていれば末は重役か社長かというのに心気一転私共の学院へ入学されたのには親類の多くが医師であったためではなかったかと思う.異った道をまた3カ年頑張って昭和41年3月第1回生として卒業,その人柄を買われて将来教官となるべく学院に残った.そして6ヵ月後にはボストン大学の大学院医療職部へ留学のため出発,2力年の研鑽をつんで帰国した.米国では主に松葉杖歩行のエネルギーコストおよび運動分析,頸の運動等運動学に関係ある研究とPTの教育について学んだ.米国での修了式にはその特異性(一度サラリーマンからPTになった,日本人で初めて等々)で現地の新聞をにぎわした.帰国後は教務において学生指導にあたり昭和45年2月,それまで部長であったWHO顧問の後を受けて部長になり昭和48年3月まで在職した.この間日本理学療法士協会長として日本理学療法士協会の世界連盟(WGPT)加盟に尽力し,そのため海外に出ることが度重なった.48年4月より東京都養育院のリハビリテーション部理学療法科長として働いておられる.このほか厚生省関係の委員(国家試験・特別委員),都立保健大学設立準備委員等の要職にある.このような公的活動がますます多忙になるだろうが,どうか学問の世界も忘れず研究に教育に研鑽されんことを望みます.
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