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暑いあつい戦後の一日,市ガ谷から歩いて河童坂をのぼり,女子医大の横を斜に焼跡をたどっていく私は傷痍軍人職業補導所長であった.そのころは東京の官庁との連絡がひと仕事であったのである.列車に乗るだけでも思うだにぞっとするような目にあう.大蔵省など四谷駅にちかい小学校舎にあった.そのついでには義肢材料の買付けに問屋を廻る.未払金の言訳であったのかも知れない.戦争中の週一回のコンサルタントから,いっぺんに所長にされてしまった私は,阪大講師―ついで市大教授の職との兼任であった.いろいろな目にあい,いろいろなことを行なったものである.
こんなとき,傷痍軍人専門から一般人に解放募集するという放れ業を私は独断でやってのけた.戦後のひどい混乱つづきだからこそ勝手なことも出来たのだろう.あとで,これは叱責を食うこととなったが,老幼,両上肢欠損や両下肢切断の人まで採用したのである.成人にちかい脳性麻痺もあるし,ポリオの後始末も多かった.こまったことには,戦傷軍人とちがってこれらの人は団体生活の経験もなければ,根気よくひとつの仕事にとりくむ気力もない.寮生活にも相互のたすけ合いの気持がないとか,他人の失敗をよろこんではやす風さえあった.よわったのは手足の能力をたかめるための訓練がいままでなかったので,調べた上で予想される身体的能力と,実際の作業能力の間がひらきすぎることである.両下肢切断者など,歩きやすい低い義足を仮製して歩かせようとしても,今までは人の背におんぶされるばかりだったと,怖がって歩こうともしない.傷痍軍人が命令一下,多少の我儘はあったとしても,何とでも仕事に食いついていくのとは,ずいぶんのちがいであった.何とか体調をととのえるのには,どうしたらよいのか,予科的課程が必要だと痛感させられる.傷痍軍人の方にも問題はあった.一,二年の修業をして社会へ出すと,勤めさきが永つづきしない.周囲の,10歳台からその道一筋にきたえ抜かれた世間の職人たちとは,技術的にあまりにもちがいすぎるのである.仕上げのすっきりしないことがじつに致命的であった.じぶんたち同志で小工場を作って働いてみたいと,一部の熱心な生徒から申し出てくる.戦後の,もののない時代である.掘立小屋のようなのを工面して希望をかなえてやるのに苦労する.これは職業補導の卒業後研修であり,その意味では補習科ともいえるが,自力をもって経営しようという作業場でもある.
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