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1970年4月,私は東京都民生局心身障害者福祉センター(原田政美所長)に福祉技術職として就いた.職場は身体障害者更生相談所,精神薄弱者更生相談所(現在は知的障害者更生相談所),そして肢体不自由者更生施設併設の機能を有していたが,200人近い職員の大半は更生相談所業務に従事していた.私は精神薄弱者更生相談所業務の一環として,重度の知的障害を持つ児の発達相談に,医師,心理職,社会福祉職,保母職,視覚障害・聴覚障害・知的障害・肢体不自由の各専門福祉技術職から成るチームに参画した.チームメンバーのほとんどが20歳代後半ではあったが,各障害の専門知識をむさぼるように交換し合い,重い障害を持つ子どもたちの現状とこれからのことを親と共に懸命に考え,討議した.討議する材料は今で言う「リハビリテーション総合計画書」のようなものであり,各専門職がそれぞれの問題とその根拠,それらに対する具体的意見を記した1枚の用紙であった.この用紙内容の討議を通して,私はおよそ100人の重い障害を持つ子どもたちの処遇のあり方を学んだ.学んだ内容は,障害の予後,客観的な障害状況,個々の家庭養育のあり方,社会資源の探索などであった.つまり医学的リハビリテーションというより,社会的リハビリテーションの色が濃い処遇内容であった.
1973年に私は作業療法士の道を選び米国で作業療法士資格を取得した.当時の日本の作業療法士は医学的リハビリテーション領域の専門職として育てられていたが,米国西海岸で学んだ作業療法は適応科学としての作業療法であった.作業療法士の制度化の時期で言えば,米国は日本の30~40年先を歩んでいた.適応科学としての作業療法と先の東京都心身障害者福祉センター勤務で受けた社会的リハビリテーションの洗礼が影響して,当時の日本の作業療法への期待にほとんど応えられない状態で,作業療法士養成のための教員となった.そして1985年,社会的リハビリテーションの理念を一層鮮明に掲げた元の職場である東京都福祉局心身障害者福祉センターに異動した.着任してすぐに原田政美所長から渡されたものは障害者の声が録音されたラジオ番組のカセットだった.障害者の声をよく聴き更生相談・指導にあたるようにというメッセージだったと今思う.二度目の障害児者への更生相談・指導の仕事を通して障害をもつ人や障害をもつ子どもの母親から数え切れないほど多くの現実を教えてもらった.そして障害をもつ当事者たちと本音で話し合うことが多くの生産的な結果を生み出すことも実感した.
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