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はじめに—多元的医療体系のなかに生きる私たち
小雨が降り出すなか,やって来る路面電車に気づき坂道を小走りで下りかけたその瞬間,足を滑らせアスファルトにしたたかに体を打ちつけた.痛みもさることながら,左腕が上がらなくなり服の脱着もままならない.2,3日我慢したが,結局近所の整形外科のクリニックへ行った.X線を撮ると骨は折れていないとのこと.医師から「元に戻るには6か月ぐらいかかるでしょう」と言われた.
クリニックでは,週1,2回,理学療法士に指導を受けながらリハビリテーションを行い,患部を温めるなどの治療も行った.しかし,数回通ってクリニックに行くのをやめてしまった.子供はまだ手がかかる,夫は多忙で当てにはならない,仕事は待ったなし.半年も片手しか使えない状態では困る.私は時間をみつけては整体,鍼灸に行った.カッピング療法(ガラス玉の陰圧を利用)も試した.背中に真っ赤な溢血斑が並んだのを見て,医療従事者の夫は「内出血しているから跡が残るぞ」と顔をしかめた.少し楽になってからはジムのプールで泳ぎ,徐々に腕の可動域は広がり2か月ぐらいで元通りに回せるようになった.
日本は医療サービスへのアクセスもよいし,公的医療保険制度も整備されている.しかし,臨床現場にいる医療者は,患者は必ずしもタイムリーに医療施設に来るわけではないし,医師の指示どおりに治療を継続するとも限らないことを知っているだろう.病いをめぐる人々の行動を理解するには,近代医療は,社会のなかに共存する複数の医療体系のなかの一つであると考える「多元的医療体系」の視点が手がかりになる.医療人類学者のチャールズ・レスリーとアーサー・クレイマンによると,どの社会にも図のように伝統医療体系(folk medicine),近代医療体系(modern medicine),民間医療体系(popular medicine)という部分的に重複する3つの体系からなる多元的医療体系が存在する1,2).
このような多元的医療体系の社会のなかで,私たちは病気になると治療を求めて一つの医療体系から別の医療体系へ移動し,あるいは併用し,時には体系間を行き来するという行動をとる.また,図が示すようにこの多元的体系が存在する社会の文脈そのものが行動を規定し,動機づけをし,あるいは阻害する.どのような治療を希求するかは,病いを経験する患者の性別,年齢,教育レベル,職業,家族や地域社会での役割やほかのメンバーとの結びつきの度合い,経済状況,病気の種類によっては生や死に対する価値観やさらに大きな世界観など,実に多様な要因と関連している.日本においては,漢方を含む東洋医学も代替医療体系として存在し,民間療法として食べ物や薬草を使った治療薬も知られているが,このほかにも世界には豊富な医療体系が存在する.世界の三大伝統医学として知られる中国医学,アーユルヴェーダ(インド文化圏),ユナニ医学(イスラム文化圏)は,各地に正式な専門医学校をもつ.また,18世紀のドイツに起源をもつホメオパス(同種療法)は,特に南インド,中南米で広く庶民に受け入れられている.
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