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つい先日,新聞を読んでいたら,若杉慧が亡くなった記事が目に止まりました.若杉慧といえば『エデンの海』と返ってくるほどにこの作品は彼の代表作と言われており,学生時代に読んだ時のそのさわやかな感動を思い出し,もう一度読んでみたい衝動にかられました.どちらかというとあまり小説を読むことが好きでなかった私にとって,なぜか教師と生徒とを扱ったものだけはよく読んだものでした.父母が学校の教員だった私は,五人兄弟の末っ子でした.親たちは一人くらいは自分たちの跡を継ぐ子がいるのでは,と最後のはかない望みを私にかけていたせいでしょうか.しかし,この期待も見事に外れ,私もまた親の望みとは違ったこの仕事に入ってしまいました.
さて,この小説は瀬戸内海に面する広島県尾道市に近い小さな町の女学校を背景に,赴任した青年教師・南条と女学生・清水巴との淡い恋愛感情のやりとりがある時は大人の眼から,ある時は学生たちの眼からと,異なった視点から豊かな情景とともに鮮明に描かれています.巴は女学校の寄宿舎に住んでおり,他の生徒より2年遅れて入学したためか個性が強く,しかも他の生徒とは違った性向を持ち,常に生徒間,職員間で問題視される娘でした.例えば,授業中教科書の内側に文庫本を重ねて読んでいたとか,編物に熱中した時は学校を休み宿舎の押入れに隠れてまで編んでいたとか,宿舎の塀の外に集まって騒ぐ男子中学生に水をぶっかけたり,といった具合です.その行動は大人の成熟した眼からは不逞と映り,未熟な側からは可燐に見えるのです.彼女が次々と巻き起こす騒動に対し退学でヤミに葬ってしまおうとする学校側の機械的な物事の処理方針に大いに反発し,青年らしい情熱の倫理で更生論をぶつ南条は,そのつど彼女を擁護し,内部の満たされない部分を理解しようと努力するのです.しかし,彼女の異常な行動はとどまるところを知らず,それが一部の生徒たちの歪んだ目で増幅されて立場はますます悪くなってしまいます.しかも南条自身も冷静な眼で見ていたはずの彼女に対して,ともすれば特別な感情を持つようになり,彼女をかばうあまり他の教師,生徒たちの間に誤解を招き,教師としての地位が危うくなるのでした.
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