人
医療環境整備に邁進 大分県立病院 徳岡三郎院長
小野田 敏郎
1
1佼成病院
pp.20
発行日 1974年11月1日
Published Date 1974/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541205471
- 有料閲覧
- 文献概要
大学のじぶん,わがクラスにシャルマン・クラブというものあり,ダンスなどをこととして勉強には精を出さず,榊原仟,羽田野茂,それに徳岡三郎などといった面々がその主力メンバーであった.このことは卒後の勉強こそ第一義ということの一例である.卒後わが徳岡君とともに見習士官として近衛の連隊にはいりともに鍛えられる.彼は陸軍軍医学校において研鑚し,その後学校の整形外科の教官として学生の教育にたずさわる.戦運非なるとき,彼はマニラ陸軍病院の傷兵をルソンの山中にまもる.
いまから5年まえ,日本病院協会Study Tourで大分を訪れたとき,彼はこの鎮西の地に專門の領域に患者の信を得,さらに県立病院長としてその人がらは県官民の信頼を博して,このとし完成されたがんセンターを合して610床の大病院を完成しておられた.これに接した看護学院はまたわれわれの模範となった.
Copyright © 1974, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.