病院長プロフイル・25
救癩の先覚者光田健輔氏(国立長島愛生園長)
pp.50
発行日 1956年3月1日
Published Date 1956/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541201079
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長島愛生園長光田健輔氏と呼ぶよりも癩の光田先生と申した方が通りがよい。光田先生と云えば癩,癩と云えば光田先生を連想する程である。先生が癩の学術方面に将又事業方面に於て,日本はもとより,汎く世界中に於ての第1人者として推される方であることは今更紹介するまでもないことである。先生のお国は山口県で,お誕生は明治9年1月である。明年1月で丁度満80歳に達せられる。先生は偉丈夫たる体躯の持主で生来頑健な方であるから現在もお丈夫で園長の劇職に当られている。先般もある人から伺つたのであるが,今でも毎月2回位は重症者病棟を廻診なされる由である。先生の曰く患者を診察して居れば元気が湧くと。
先生は弱冠21歳で医者となられ,東大病理学教室に入り病理学を専攻せられ,明治31年7月より東京市養育院に勤務せられ,ここで癩患者の診療並に研究に当らるること11年,明治42年9月第1区府県立全生病院(現在の国立多摩全生園)の開設せらるると共にその医長として栄転せられ,大正3年2月には更に院長を兼任せらるるに至り,昭和6年3月国立長島愛生園の開設せらるると同時にそちらの園長に栄転せらるるまで22年間,全生にあつてその基礎を固めらるると共に,整備拡張に尽瘁せられた。愛生園に転ぜられてよりも鋭意有らゆる方法を尽してその整備拡張を計られ,開園当時の450名の収容定員から今日の2,160名の定員を有する一大療養所へと育て上げられた。
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