とびら
第三者の目
大田 仁史
1
1伊豆逓信病院
pp.379
発行日 1980年6月15日
Published Date 1980/6/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1518102162
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“初雪に一の宝のしゅびんかな”これは妻子と死別し,自らも脳卒中の再発に悩まされ続けるという不遇な晩年を,ひとり雪深い信州で送った小林一茶の句である.初雪を愛でたい風流心はなおさかんであっても,自由のきかぬ手足のもどかしさを,おそらくは寝床のなかで,自嘲をこめ詠むより他になかったにちがいない.だが,この句に,何とはないユーモアを感じるのは,不自由なわが身でさえ,句題にして詠んでしまえる,一茶の心のゆとりのようなものが,底に流れているからであろうか.
名優の誉れの高かった六代目尾上菊五郎が臨終の床にあった.親族や弟子が枕もとを取り囲み,この名優との別れを惜しんでいた.おさえることのできない囲りの鳴咽が名優の耳に達したのか,菊五郎は,瞼を重くひらいて,「まだ早いッ!」と一言.それから一時の間をおいて静かに息を引きとったという.名優らしい芝居気のある往生である.「まだ早いッ!」という言葉に,どういう気持がこめられていたのか真意は定かではないが,「まだ俺は生きているのに,別れの涙を流すのは,ちと早すぎるぞ」とでも言いたかったのだろうか.いずれにせよ,この光景もそこはかとないユーモアを感じさせてくれる.それはやはり,先ほどの一茶の句と同じように,わが身の死という極限の現実でさえも,第三者の目で見ることができる心のゆとりがその中にあるからであろう.
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