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はじめに
らいの流行は今なおアジア・アフリカ・南米各地に濃厚で,全世界に約1000万人の患者が推定できる.日本はすでにらいの流行地ではなく国立療養所11か所,私立3か所に約1万人弱を残すのみとなった.沖縄では2か所の療養所と在野の患者を合わせて約2000人である.
わが国のらい歴史をながめて言えることは,らい予防法による絶対隔離政策(今日強制収容は事実上行なわれていない)が患者の減少にあずかった力はさほどでなく,患者の減少は生活水準の向上にかなり依存していたということである.絶対隔離が患者に社会復帰の場と意欲を失わしめ,隔離しなければならぬほど‘らいは恐ろしい’ものという差別と偏見の壁を厚いものにした一因であったことはまぬがれがたい.患者への福祉政策は依然として貧しく行政的に社会的に末解決のままらいの消滅を待つ感がある.
1941年米国カービルらい療養所でスルフォン剤によるらいの化学療法が実施,驚異的な成果をみて以来,らいは不治の病からはずされ,‘らいは変形である’,ということばも過去のものとなった.現在国際協力(WHOなど)が活発で慈善活動から脱皮し,治癒および制圧を目的としたらい対策が世界中で積極的に強調されている.日本でも国際的な流れに乗ろうとする努力が行なわれていないわけではない.外来診療の実施によって軽快退所者のフォローアップの体制を整え,専門医の養成を急ぎ早期発見早期治療の実をあげようとする計画などがそれである.
さて,日本におけるらいの理学療法は1956年ごろかららい療養所での手の外科を中心とした外科手術の充足によって促進されてきた.技術者の養成は医師の必要に応じ個々に進められていたが,1961年以降は厚生省療養所課および藤風協会の手によって全国統一的な研修会が催され,特に1965年(4月,8月の2回)米国PT Miss Watsom,Miss Tilmanの指導によって,らいの理学療法が定着する基礎が成ったと言える.
らいの理学療法の原理は末梢神経マヒのそれと同軸に考えればよいのであろうが,知覚マヒの範囲が広いこと,また両側性に手足の運動障害がみられるので単純には言えない.
とかくらいそのものが嫌悪の対象であっただけにそれに目をうばわれたり,逆に関心が薄らいでいるなど,らいの理学療法の正しい位置づけが失われることを恐れる.
ここではらいにおける知覚・運動神経マヒの発生機転と変形ということをふまえて,らいの理学療法の実際について若干の解説を試みたい.
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