鏡下耳語
眼横鼻直
田中 康夫
1
1京都府立医科大学
pp.712-713
発行日 1974年10月20日
Published Date 1974/10/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1492208128
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永平寺開祖道元禅師の語録にあるもので,「がんのうびじよく」と読む。丁度今から約七百五十年前,道元は宋にわたり慶元府の天童山景徳禅寺で五年間きびしい修行をつみかさね,如浄禅師より釈尊以来嫡々相承の印可嗣法をうけ日本にかえつてきた。当時日本は北条泰時の執権政治の時代,京都では三上皇の配流,まちには群盗横行し,叡山延暦寺の衆徒が法然らの念仏僧に暴行,新宗教への迫害がますます激化しつつあつた頃である。
道元は帰朝後,大陸伝来の新仏教「弘法救生」の理想を実現せんがために機の熟するのをまち,都をはなれた深草の地に,漸くにして興聖宝林寺を建立した。そして僧堂の開堂にあたり,上堂語の中で「眼横鼻直を認得して人に瞞せられず,すなわち空手にして郷にかえる」と述べているのである。従来の留学僧は多くの立派な仏像や経典をもちかえつたようであり,現在でも比叡山横川の秘宝館を訪れると,それらの品々の一部をうかがい知ることができる。彼らのもたらしたものは世の人々を有難たがらせ,わが国の文化をゆたかなものにした。しかし一面,それらの品物は人々をまどわせるものでもあつた。有難たい仏像や経典がすなわち仏教であるのだろうか。道元はそのようなみやげ物を何も持たないでかえつてきた。在宋五年のひたむきな修行において,ただ眼は横に鼻は真直ぐたてについていることをよく知ることができ,人にまどわされることもなくなつて帰つてきたというのである。
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