鏡下耳語
外遊雑感
広戸 幾一郎
1
1久留米大学
pp.196-197
発行日 1969年3月20日
Published Date 1969/3/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1492207266
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8月30日,マドリドよりパリに着いた。しとしとと小雨が降つており,レインコートなしでは寒くていられない。寒暖計は摂氏10度をさしている。マロニエの葉はすでに黄ばんで正に秋の風景であつた。この時はじめて,ヨーロッパは寒い国であるということを肌で感じた。地図をみればわかることであるが,パリの緯度は49度,北海道の北端よりさらに北である。比較的暖いと思つていたフランスですらこんな気温であるので,世界の文化の推進役をつとめてきたヨーロッパ民族は寒国民族であると痛感した訳である。そういえば,パリの凱旋門は礎定より完成までに25年を要しているし,ベルサイユ宮殿に至つては実に50年を要している。私ども日本人からみると,気の遠くなるような話である。寒い国の人はねばり強いとは一般の通説であるが,試にこれは異常なまでのねばり強さという他はない。ヨーロッパ文明の原動力はこの民族性に基づくものではなかろうかと思つた。
5年前にヨーロツパを回つた時,音声生理学方面で有名なS氏を訪ねたことがあるが,その時の印象は,20年間この道一筋に進んでもこの程度のものかということであつた。学問の難しさは別乏して,S氏がすぐ手の届く距離におられるように感じたためであつたが,これは私が底をみなかつた誤りであつた。この方面の文献を知悉し尽した上に立つての一歩一歩確実な足取りであつた訳で,この道一筋の執着をこそ,またその堅実さにこそ眼を向けなければならなかつたのであつた。
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