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耳塚實は鼻塚
pp.853,856
発行日 1953年12月20日
Published Date 1953/12/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1492201043
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明治27,8年の日清戰爭の頃,落合直文と云う人の詠まれた和歌に,耳塚のありてふ事をまつろはぬ醜のえみじに聞かせてしがなというのがある。この歌は,文祿・慶長の昔,豊太閤が征韓の際,我が將卒が韓兵の首を斬る代りに,耳翼を切り取つたのを太閤の許に送り,それが莫大な數に達したので,京都の大佛に埋めて耳塚と稱えたという史説に因んで,日本には耳塚というものがあるぞ,頑冥不逞な支那の奴共に是非この事を聞かせてやりたいものだ。然らば彼等は我が軍隊の威武に恐れて,抵抗を敢えてすまいという意味で詠まれた歌であると想像される。
落合大人といわれた有名な國學者でさえ,このように耳塚として詠まれているが,しかし,實はこれは耳塚ではなく,鼻塚であることが判つたので,こゝに少しく考證してみたい。
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