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1968年3月に卒業して以来,32年間医者として働いてきた.卒業当初教授になろうなどとは,夢にも思わなかった.真柳先生のご推薦でパリ・サントアンヌ病院に留学することになったのが1973年で,てんかん外科で有名なタレラック教授に師事することとなった.頭の中にブスブスと電極を刺し,深部脳波を病室でテレメーターを使ってとり,自然発作を記録して,発作が何処から始まったのかを脳波学者のバンコー先生を中心として白熱の議論をして(フランス語が難しくて半分ぐらい判るようになったのは留学が終わりに近づいた頃であった),発作焦点・刺激亢進部・発作進展部位などを判断して,シェーマに描き,切除部位を決めて,手術日にはシェーマどおりに切除するという,今現在われわれが行っている方法と殆ど変わらない方式で難治性てんかんの手術を次から次に行っていた.当時,パリ・サントアンヌ病院脳外科には,脳外科医はタレラック教授と私しか居なかったので,殆どの手術を教授と二人で行った.一方,シックラ先生は定位脳手術が専門の先生で,タレラック式のフレームを用いて現在はやりのpallidontomy,hypophysectomyの他,深部電極を望みの位置・深さに入れるのが仕事であった.またシックラ先生は脳溝・脳回と血管の関係を立体的に把握した脳のアトラスを作成中であり,それを手伝うのが私のもう一つの仕事であった.研究の当初は,あまり面白い仕事ではない様に思ったが,やっている内に面白くなってしまい,側頭葉平面の左右差を立体血管撮影で近似計算し,アミタールテストで決定した言語優位半球との関係を検討した仕事が私の博士論文になった.
日本に帰ってから,早速てんかん外科をやりたかったが,世の中はそれどころではなかった.縁あって鳥取大学に奉職し,てんかん外科どころか,顕微鏡手術も普及していないところで,教室員も少なく1からの出発を余儀なくされた.助教授であったが,月に7-8回の当直をしながら,巨大聴神経腫瘍や動静脈奇形の(grade Ⅳ-Ⅴ)手術,また東京でし残した電子顕微鏡の研究を杏林大学の解剖学教室で行うなど,文字どおり不眠不休で仕事をした.その間もずっとてんかん外科を行う夢は捨てては居なかったが,なにしろ日常の生活が忙しく,京都で国際脳波学会があり,サントアンヌの先生方が来ているのは判っていたが会いにもいけない状態であった.
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