扉
反省—論文著者と校閲者の立場から
三輪 哲郎
1
1東京医科大学脳経神外科
pp.411-412
発行日 1978年5月10日
Published Date 1978/5/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1436200804
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毎日の新聞のどこかに,文字,文章,読み方,あるいは読書に関する記事が目につく.たとえば10何年も学校生活についやしていながら,自分の考えを満足に文章に表現できない学生が多いとか,受験戦争で参考書にくくりつけられ,文章の美しさを知らない気の毒な学生たちとか,また国語の実力の一端をみるために入社試験に短文を課す会社がふえているとか,きりがないくらい国語教育の現状の一駒がうかがわれる.また1年ほど前の新聞記事に閣議中,閣僚方が国を守るキガイを"気概"か"気慨"かで漢字論争をやり,けっきょく文部省に問い合わせて木偏に落ちついたという事件と,校正に詳しい加藤康司氏の「辞書の話」の中に故吉川英治氏は常々"気慨"を用いていることが対比されていた.
後者では「大言海」に気概と気慨は同じであると記され,またこれは心の問題であるから木偏では感じが出ないと理由をあげている.
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