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バビンスキー(Joseph Francois Félix Babinski;1857-1932)は,ポーランドからフランスに亡命した両親のもと,パリで1857年11月2日に生まれた。父はポーランドの革命家であったが,のちにパーキンソン病に罹患し,1899年に死亡した。バビンスキーは,1885年にポーランド名のJosefからフランス風のJosephに改名している。バビンスキーの読み方だが,本来Babińskiであったし,彼もそうサインしている。フランス風のババンスキーよりも彼の愛する祖国ポーランド風のバビニスキー(バビニュスキー)の読み方を好んだと思われるのである2)。
バビンスキーはポーランド人学校を卒業し,医学部へ入り,1879年パリ病院のアンテルヌとなった。アンテルヌを終えたバビンスキーはパリ大学医学部病理解剖学のヴュルピアン(Edmé Félix Alfred Vulpian;1826-1887)教授の指導のもと,1885年に『多発性硬化症の解剖臨床的研究』と題する151頁の学位論文を提出した(Fig.1)3)。この後サルペトリエール病院のシャルコーのもとで,外来医長に就任する。彼は1890年に5回目の試験でパリ病院医師の資格を得たが,1892年の教授資格試験には失敗した。このときの出来事はその年の『British Medical Journal』誌でも酷評されたが,結局彼はその後大学に職を得ることなく,生涯をピティエ病院の内科部長として過ごすことになる2)。その頃の彼の診察ぶりはいろいろなところで書かれているが,フランスの伝統に則り,患者は完全に服を脱ぎ,バビンスキーは一言も話さずにその患者と向き合い,数時間の診察を続けることもあったという。
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