教室紹介
東京大学/神戸大学
北郷 修
pp.1014-1015
発行日 1967年9月1日
Published Date 1967/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1412200218
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東京大学皮膚科学教室の歴史について語るには,わが国の近代西欧的医学教育の黎明期にまでさかのぼらなければならない。東京大学医学部の前身である医学所および大病院は明治2年大学東校とよばれるようになり,明治4年にドイツのMüllerおよびHoffmannを招聘した。Müllerと明治8年に着任したSch-ultzeは時々梅毒学の講義をしたという。明治14年Scribaが外科教師として就任し,外科の講義のかたわら皮膚病学梅毒学の講義も行なつた。
これよりさき明治8年大学東校内にいわゆる通学生教場が開かれるとともに花岡真節,宇野朗の両先生が皮膚病学梅毒学の講義を担当していた。明治19年帝国大学令が公布され,宇野先生が外科教授に就任するとともに本科生にたいして繃帯学の外に皮膚病学梅毒学の講義を行なつた。明治23年になつて村田謙太郎助教授によつて皮膚科学梅毒学がはじめて正式に開講され,村田先生は明治24年教授に昇任されたのであるが,翌年病のため夭折された。明治26年講座制が布かれ,皮膚病梅毒学もまた講座となり,外科の宇野教授が兼任教授としてもつぱら皮膚科学の講義をされた。この頃皮膚科泌尿器科の病室がはじめてもうけられ皮膚病教室と称した。明治27年東京帝国大学に皮膚病学梅毒学の専任教授をおく必要がおこり,たまたまHeidelberg大学に留学中の土肥慶蔵先生に文部省は皮膚科学専攻を命じたので,土肥先生はWien大学に転じ,Kaposi教授の下で皮膚科学を勉学することとなつたのである。
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