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私が大学2年生の時,下宿していた家の御主人が広島出身であった。当時,すでにその主人は読売新聞社のお偉方であったが,若い頃苦学して大学を卒業した話を時々聞かされた。この世代では〔苦学〕という経験をした人は沢山いたが,この人の稼ぎ方は独特であった。筆の軸に字を刻ることで生計を立てながら学校に通ったということであった。笨屋の店頭に並べてある筆の軸をみるとすぐわかるが,何文字かの字を入れその下に筆屋の銘が刻り込んである。安筆には焼き印か,印刷した紙が張ってある。刻師(ほりし)は筆の卸屋にとって必要な職人であり,1年を通して刻の仕事があり,年末には書初め用として沢山の筆が刻師のところに持ち込まれる。御主人の現在の仕事は全くそれと無縁であったため,実際に刻るところはなかなか見せてもらえず,手真似で覚えたその家の奥さんに見せてもらった。これは面白いと思った。それに加えて,私自身もアルバイトを必要としていたので,この技術を身につけようと思い立った。奥さんに頼んで1本の彫刻刀と穂先のない竹製の筆軸のみを沢山手に入れて,まず〔一〕の字を刻ることから始めた。見るとやるとは大違いで,刀が滑って竹軸に食い込ませることすらできなかった。刀を動かすというより軸を回しながら削るのが呼吸である。なんと1週間かかって〔一〕の字がやっと刻れるようになった。そして,縦棒,はね,点,等々,漢字のつくりすべてが自由に刻れるまでには大変なことだと自信がなくなった。奥さんの話では,数人の人たちに教え始めたが,今まで1人も最後までやる人はいなかったということであった。御主人は「どうせすぐ嫌になる」と思って口も手も出さなかったが,1か月ほどで字らしくみえる刻りを見せたところ,「よし,教えてやろう」といって腰を上げてくれた。広島出身の御主人が持っていた技術は〔広島刻り〕といって,肉太の楷書で,力強い字型であり,〔奈良刻り〕,〔江戸刻り〕は細い柔らかい字型であることを知った。それは彫刻刀の三角の角度が基木的な違いで,広島刻りは90°に近く,奈良刻りは60°ぐらいである。私は広島刻りを習ったことになる。広島の筆所は熊野であり,数年前,彫刻刀を買おうと思ったが,どこにもなく,この熊野まで行ってやっと手に入れたものである。字を刻るということだけでなく,当然のことながらその刀の刃を研ぐ方法も覚えなければならない。荒砥と仕上砥を使い,虫眼鏡で三角刀の先端を見ながら研ぎ上げる。大体100から150字刻るごとに研がなければならない。また刻り上がったあと色を入れるが,〔ふのり〕を煮て,そこへ〔泥絵具〕を入れて,一様になるまでよく混ぜたものを使う。今はふのりも泥絵具も簡単には手に入らない。泥絵県は〔群青〕〔緑青〕〔朱〕〔金粉〕などであった。神田へ買いに行ったものである。数年前その前を通ったが,店はなかった。その色で刻りを埋め,乾いたあと,しぼった手拭でまわりの色を拭き取る。この色つけをすると一段とよく見える時と,どうにも見られない字になる時と極端な差が出る。字になるようになってから,御主人が筆屋を紹介してくれたので,そこからお金になるようになった。何と習い始めてから3か月にもなってしまった。2年ほどするとかなり刻りのスピードも出て,1本の筆に五文字ぐらいの簡単なものなら1日で1,000木ぐらい刻ることができるようになった。当時いくら物価が安かったとはいえ,1字20銭では,1本5文字で1円,1,000本で1,000円で,これが精一杯であった。しかし〔二コ四〕の時代であったから決して悪い収入ではないといえよう。一番辛かったのは年末の書初め用の筆刻りであった。筆屋のおかみさんが筆を持って私の宿にやってきて,〔今,300本刻ってくれ,それまで待たしてもらう〕というようなことがよくあった。しかも,私が出入りしていた筆の卸屋は四軒で,私の宿でかち合って困ったこともあった。医者になってからも,時々東京の筆屋が高価な筆を持って千葉まで来て,刻ってくれと頼まれた。昭和36,7年頃のことだが,東京には5人の刻師しかいないという話であった。若い人はこの種の仕事はもうやらなくなるだろうとも言っていた。今はもうもちろん頼みには来ない。ともかく,学生時代にはそのお陰で生活にも学費にもあまり不自由はなくなった。とはいっても,いつも筆刻りばかりしているわけにはゆかない。アルバイトはあくまで本業あってのアルバイトである。レポートや試験の時には筆刻りをしない日が1〜2週も続いて,食べるのに窮することもしばしばあった。持ち込まれている筆をあわてて刻り,筆屋に走り,何ほどかの刻り賃をもらって,その帰りに魚市場へゆき,6〜7本のサンマの盛りを数十円で買って急場を凌いだこともある。Remingtonのタイプライターを質屋に入れ,2週間ほどアルバイトをせず,時間ができたところで一所懸命刻って,流れる寸前に質屋から下ろしたこともある。こんなせっぱ詰まった話も今思えば,なかなか面白い経験ではあった。神田の筆屋に仕上がった筆をとどけて帰りに,屋台でコップ1杯30円の焼酎とやきとり1本が,いかにおいしいものであったかも,年末の実入りで豪勢に,近所のトンカツ屋で200グラムのトンカツをあげてもらい,堪能したのも愉快な体験だと思っている。30年近く経った今,これらの経験を思い出として回想するだけでなく,現実にこの筆刻りの痕跡が,右手の中指に残っている。三角刀を中指で支えて刻るため,指先がひどく曲がってしまい,それが元に戻らなくなっている。異常な肩凝りも,このせいかもしれない。今の私は気が向くと,時に刻台に向かって般若心経でも刻るくらいのところである。刻り台といっても,坐って上腹部のところまでの高さで,幅50cmぐらいのものである。引出しがついていて,削りかすを受けるようになっている。太筆から細筆までの筆軸を支える溝を台縁に数個作り,そこに灯りが当たるようにスタンドを設置してある。最近,大学院を卒業し,博士号をとった数人の教室員が,記念にこの刻台を新しくしてくれた。道具が備えられた後は,刻るも刻らぬも私の気分次第ということになる。時間を作って趣味としてもう少しやってみたいと思っている。そのためには字を勉強しなければならない。私は隷書が好きである。もちろん見る方で,書くことはできないが,お手本は買い込んである。買っただけでほとんど手習いはしていない。いつになったら体がそちらに向くか心細い限りである。先日,奈良へ行った時,筆屋の店頭に並ぶ筆の中に隷書が刻ってあるのを見て感心した。私も試してみようと思っている。趣味で刻るとすると,もう一つ困ったことは,軸に字の刻っていない(無印)筆を手に入れることである。しかも上質の軸は上質の筆に使っているので,1本の値が高いことになる。熊本の筆屋で10本ほど無印の2号筆を仕入れてもらった。これで数万円になる。熊野にでも行って相談してみようと思っている。
何人かの先生には私の刻った筆をもらっていただき,何人かの方々は大変喜んで下さった。職人の域を出ていないが,もう少し魂をつめていろいろな字を刻ってみたいと思っている。
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