連載 あのころ あのとき・10
あの論文を書いたころ
樋渡 正五
1
1防衛医科大学校
pp.1718-1720
発行日 2001年10月15日
Published Date 2001/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410907529
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私は敗戦を海軍兵学校舞鶴分校(旧海軍機関学校)で迎えた。真っ先に兵学校の生徒を家に帰すことがわれわれの第一の任務だった。次いで兵,下士官,士官にも帰宅命令がきたし,私にも9月に入ってから帰宅命令がきたが,9月22日に復員輸送艦占守(しむしゅ)乗組を命ぜられ,23日に占守に着任した。私が永久軍医であったからである。舞鶴から艦で佐世保に赴き,ここで米国の油槽船から重油の供給を受け,グアム島に向けて出航した。最初はグアム島からヤップ島に赴く予定だったが,グアム島でトラック島行きに変更になった。1日半の航海の後トラック島に着いた。ここは日本の艦隊や航空隊の基地としてがんばったところである。ここで陸海軍軍人軍属400人を乗せ,11月下旬に浦賀港に帰り着き,艦は横浜に回航してドックに入り,私は復員した。
12月下旬,皆より遅れて復員し,無給副手として医局に帰ったが,私の家は強制疎開の最中に空襲で焼け,妻の曙町の家も4月11日の空襲で焼けたので,妻の先祖代々の岐阜の田舎の家に仮寓させてもらっていた。東大の医局に帰るためには東京に家を捜さねばならなかったので,私は立錐の余地もなく満員で窓ガラスの全くない列車に無理矢理乗り込んで東京まで何遍も往復して家捜しをした。東京の中心部は大部分灰燼に帰していたため,東京大森の辺鄙な場所に焼け残った母方の親戚に無理に頼み込んで泊めてもらい,郊外のあちこちを家捜しをした。旧円は封鎖されたため,やむなく仲介してくれた人に3割の手数料を払って,駅から30分近くもかかる荻窪の畑の中にある小さな一軒家をやっと買い求めた。
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