Siesta
見えるということ
柳田 隆
pp.132
発行日 1994年10月30日
Published Date 1994/10/30
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410904053
- 有料閲覧
- 文献概要
数年前のある日,白髪をふり乱したよぼよぼの「おばあさん」が家族に手をひかれて暗室へ入ってきた。1眼はすでに成熟白内障であり視力は手動弁,他眼もかなり進行した白内障で,視力は0.1未満であった。両眼とも白内障手術を行い,経過は良好で「明るくなりました」という言葉を聞いてはいたが,入院中に化粧をする人は少なく,また病院から貸与された病衣を着ているせいもあり,特に気がつくほどの変化はなかった。しかし,術後経過観察のため外来受診されたときは,これが同一人物なのかと目を見張ってしまった。服装がきちんとしているのはもちろん,髪をきれいにとかし,頬紅をつけ,口紅をひき,見違えるような品のいい「老婦人」としてにこやかに私の前に現れたのである。
いわゆる五感の中でも視覚が最も重要であることを私たち眼科医はよく知っている立場にあり,また患者さんからも,たとえば「片足がなくても眼が見える方がいい」,あるいは,「眼が見えないくらいなら死んだほうがまし」などというやや誇張されたことばを聞くことがある。しかし同じ悩みを持たない限り所詮は他人事であり(もっとも同じ悩み=視力障害,を持ったのでは眼科医としてやっていけないが),その苦しみを本当に理解しているとはいい難い。それでも毎日たくさんの患者さんをみていると,特にこの患者さんのように見えない人が見えるようになったとき,その変貌振りに驚くとともに,“見える”ということはこんなにも人間を変えてしまうものなのかと実感した次第である。
Copyright © 1994, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.