特集 思い出・追悼論文
想い出
清水先生の憶出
花牟禮 淳二郞
1
1元佐世保市民病院
pp.451
発行日 1954年8月10日
Published Date 1954/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409201073
- 有料閲覧
- 文献概要
私が昭和7年卒業と同時に入局した時の教授は京大出身の勝矢信司先生であつた。先生は不運な事件に遭遇して9年初退官された。同年夏後任に清水先生を迎えた。先生は几帳面な礼義正しい方であつた。盛夏でも,きちんとネクタイをつけて居られた。先生の指導は極めて厳格であつた。手洗,手術野の消毒,被布のかけ方等でもいい加減なことを許されなかつた。前立助手も麻酔係もそれぞれの持場に於て最善を盡してエキスパートたらんことを求められた。人は「その位に素して行う」べき処世の訓を示されたものであろう。大手術を恐れず小手術を侮らず細心にして大胆,一度メスを執らるるや,左顧右眄することなく果敢神速に始終する手術を重範された。アルバイトも他力本願を戒しめられ実験の成績を時に報告しても無言でうなづかれるだけて最後迄特別な指示は与えられなかつた。校閲は対座して行われ寸分の曖昧を許されないだけにこちらは流汗淋漓であつた。達筆ですらすらと訂正されるとそれを一字も直されることはなかつた。文章のうまさはあの年代の教授の多くが漢学の素養が豊かであつたためであろう。教室員は順に一人を約半年に互つて外来や病室,手術場に於て峻厳な指導を機関銃の様に持続集中された。これは堪え難い程の試煉でそれをパスすると一生面倒を見ていただけた。先生を遠く離れ年月が経つに従つてなる程とうなづける身に泌みる様な指導振りであつた。昭和11年佐世保市民病院が創立さるるや私は医長に就職さしていただいた。
Copyright © 1954, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.