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■はじめに
私が東京女子医科大学の存在を知ったのは,昭和38年(1963)に九大医学部を卒業して,東京の立川米空軍病院で1年間,インターンを行ったときである.われわれ18人のインターン仲間に,東京女子医大卒の吉岡美奈子さんがいた.そのとき,何のために女子専門の医学校があるのか?と不思議に思った.その後,渡辺淳一の小説,昭和45年(1970)初版の「花埋み」を読んで,吉岡彌生が明治33年に東京女医学校(東京女子医科大学の前身)を創設するころは,女性が医師になることが,いかに難しいかを知った.吉岡彌生女史伝記編纂委員会の依頼で伝記記者・神崎清が,古稀に近い彌生に密着取材して自伝風に書いた「吉岡弥生傳」が,昭和16年(1941)に出版された.さらに彌生の長男博人によって,文章が現代仮名遣いに改められて,改訂版として昭和41年(1966)に発行された.それを筆者が読んだのは,20年ほど前であろうか? その後,彌生の人生に魅かれて,いろいろと文献を読み,彼女の生家とお墓を訪ねたことがある.
今回は,彌生が東京女医学校を創るところを中心に述べる.参考文献には,「彌生」と「弥生」の両方が使われている.筆者自身,名前「木村專太郎」の「專」の旧字に,特別のこだわりを持っているので,あえて「彌生」を選んだ.
明治17年(1884)に医術開業試験に名称が変わった日本の医師国家試験において,翌年の明治18年(1885)に,「花埋み」の主人公・荻野吟子の合格により日本に女医第一号,彼女から数えて27人目に女医・吉岡彌生が明治25年(1892)に誕生した.彌生が24歳の明治28年(1895)に,4歳年上のドイツ語塾・東京至誠学院経営者兼塾長の吉岡荒太と結婚した.しかし,明治32年(1899)に,主人の荒太が糖尿病で倒れ,翌年ドイツ語学院は閉鎖された.当時,彌生は東京至誠医院を開業していた.明治33年(1900)に,彌生が学んだ長谷川泰の経営する医学校・済生学舎(後の日本医科大学)は,風紀の乱れを理由に女子の医学勉学を不許可とし,在学中の女学生をも閉め出した.女性の医学への門戸が全く閉ざされたことを知った彌生は,女医学校の設立を決心し,主人・荒太の理解と協力を得て,同年にわが国最初の女医養成機関・東京女医学校を創設した.その後,医学校は明治45年(1912)に,東京女子医学専門学校に昇格した.その後,彌生は女医教育,女性の教養と地位の向上に努めたが,第二次世界大戦の敗戦後に一時公職を追放された.しかし,昭和27年(1952)に,彼女は女子医専から世界で唯一残る女子医学校に昇格した東京女子医科大学の学頭に就任した.
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