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「所安夫・脳腫瘍」は昭和34年12月,厳密には,所安夫氏が巻末の「VIおわりに」の中に記しておられる様にその年の12月15日に出版されたものである。私は昭和31年大阪大学医学部卒業,1年のインターンの後32年4月に大阪大学医学部第一外科学教室(主任,小澤凱夫教授)に入局を許された。私の記憶では,独特のいぶし銀色に朱色で所安夫・脳腫瘍と背文字のある,表紙左下隅にこれも朱色で所安夫と署名が印刷されている大きな書物を教室の図書室で見つけたのは入局して早々の頃であった様に思うが,実は昭和35年はじめの頃の事であったのであろう。今回覆刻版を手にして,当時の原本の方がもう少し分厚かった様に思ったがこれは間違いであろうか。紙質などの為かもしれない。昭和34年35年頃といえば血管撮影や気脳撮影などがようやく体系化されかかった時代であり大阪大学では神経病理学や脳腫瘍の病理学らしいものも無く,私は年に十数例程度の脳腫瘍症例と格闘しながら病理組織学を勉強しはじめていた。少なくともこの大著は私如き初心者向きではなく,読めば読む程かえって混乱してしまう事が多かった。この莫大な知識を持ち哲学と文学に彩られた玄妙至極な文章を書く強烈な個性を有する学者が東京に居られると思うと,一種の恐怖を覚えた事を鮮明に記憶している。
30年を経てもう一度覆刻版に接して現在の学問からみても最も新しい命題を具体的に細かくかつ又包括的に取り上げておられるのを見て,所安夫氏の学の深さに再び驚くのである。覆刻版の序にことよせて著者が『……30年近く経過した今現在,……全頁を貫く意外性であれ,それらを一切合切塊めてみますと,今日迄世界の医学出版界に提供されたどの一冊をとり上げても,私の「これ」にくらべ,私が正直且良心的に羨ましく思う書は,他のいずこにも見当たりません。どなたがどうおっしゃろうと,これは私の生涯たった一つの自侍です』と書いて居られる。この不動の自信と気迫が初心者であった私を畏怖せしめ,今また再び会って一層敬う心を起こさせる精神的エネルギーの根源なのであろう。「所安夫・脳腫瘍」は世界で類の無い学術書であってその内容は年を経てもなお新しい。然しそれよりも,この書に接することにより日本の生んだ一人の巨人に会うことが出来ることが学問を志す者の幸であろう。
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