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Löhr, Senning, Witt編"Ergebni—sse der chirurgie und Orthopädie"の第50篇である。本書はBorchardund von Brunn (1920)のDeuts—cher Chlrurgenkalenderを第1版とし,1926同名第2版,Michelson改訂Deutsches Chirurgenverzeichnisを第3版,Hübner改訂Chirurgen—verzeichnisを第4版とし,従つてBürkle de la Camp改訂は第5版となるという,なかなか歴史のある,権威のあるモノグラフというべきで,1955年Bürkle de la CampはDtsch. Gesell. Chirurgie会長で1962名誉会長。1968年2月から本書にとりかかつて努力した。
ドイツ外科学会々員をアルファベット順にならべ,現住所,生年月日,学歴,職歴,現在の専門,著書,主要論文などを,ドイツ式に克明に記述してある。これだけで1035ページにのぼる。ついでドイツの大学外科教室のDirektorenを,さらに関連諸外国外科教室名,主任を,そしてドイツ公立病院外科部長をズラリと並べ,最後にこれまた克明な人名索引(21ページ)がつづられている。なるほど,こうしてみると,われわれ外国人には便利がよい。たとえば,Bürkle de la Camp教授はMschr. Unfallheilkの設立者,編集主幹で,Traumatologie,Tetanusなどの研究者として筆者は知り,読んできた。いま本書をよむと,彼は7ページにわたつて精述されている。1895年3月6日Bonndorfに生る。Approbationsjahreは22 Fre—iburg Br., Promotionsjahrは22同,Habilitationsjahrは29 München,専門は外科学,学歴は,22-24 PathInst. Freiburg (Aschoff),24-28 ChirUniv. Kl.Frelburg (Lexer),28-33München (Lexer),33-62彼の最後の教職といつた具合で,Aschoffに学び,ついでLexerの教室に入りFreiburgからMünchenへ移つたことがわかる。論文は32年Blutgru—ppenkundeという本の中でprakt.Bedeutungというのを書いたのが始まりで,われわれのよく知つているBier-Braun-Kümmellの手術書の彼の担当は1933年,彼28歳の作であることも,始めておぼえた。こんな私の感懐にふけつても仕方ないが1例をあげればかくの如くであるということである。Bauer教授なども実にくわしく,その今日ある姿を十分に追うことができる。こころみにLangenbecks Arch.やBrunn's Btr,Zb1. Chir.などに出てくる名前を,片端しからあたつてみたが,とに角全部出て来て,その人の成り立ちが皆わかる。一体こういう本を1920年ごろから学会として作つていたのは,このドイツの本をのぞいて,他にも,いくらでも例があるのか否か,筆者は不幸にして知らないが,考えてみれば,外科学会員名簿だけあつたつて何の意味もない。やはりこんなふうにそれに内容をつけなくては価値が少ないだろうと思う。そうすれば外科学会が青医連になろうが全学連になろうが,エライ研究者はヨイ仕事をしている事実は永久につたえられるだろう。いろいろ考えてみて,やはり,いい本に出会つたと思うし,このくらいの本は外科教室(外科部門)に一冊もつていてもよいだろうと思つた。年末の忙しい時に本書をさかんにアチコチひつくりかえし人名をさがし読めたのは1970年の恩寵かといつてよい。
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