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特集 現代日本の社会精神病理
精神科の患者をとおしてみた現代日本の病理
Pathology of Contemporary Japan, as Observed through the Window of a Psychiatric Outpatient Clinic
岡田 靖雄
1
Yasuo OKADA
1
1荒川生協病院
1Arakawa-Seikyō Hospital
キーワード:
Loss of tenderness
,
Neglect of minority
,
Bureaucratic formalism
Keyword:
Loss of tenderness
,
Neglect of minority
,
Bureaucratic formalism
pp.407-411
発行日 1993年4月15日
Published Date 1993/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1405903434
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患者をとおしてとなると,どういう所で診療しているかに左右される。わたしが精神科外来を担当している荒川生協病院は,東京都東部の荒川区に位置している。荒川区は,人口が激減しつっあって老人層がふえてきている,23区のなかでは経済的にもまずしい区である。外来にくる人には,古典的なヒステリーの患者さんやキツネ憑きなどいう人もいる。わたしの目のせいもあろうが,あたらしい病理はみえてこない。霊がつく,太陽を信仰する,夢枕,受診する日を方角によって判断する,といったことがかれらの口からかたられる。エホバの証人,眞光文明教会,大山祇命神示教会,霊波の光などにかよっている人もいる。この人たちの宗教的行為は,多神教世界のものだろう。それを迷信的とくくることもできるだろうが,排他的な一神教の世界観よりは,迷信的であっても多神教の世界観のほうがすぐれているものとわたしは感じている。こういう場でみえる“現代”とはどのぐらいの範囲をいうのだろうか。わたしに“今日”的な流行はみえない。だが,いかにも“今日”的にみえるものも,実はもっと古層のものの露頭にすぎないのかもしれない。
さらに,“病理”とはなんだろうか?“日本の病理”とか“社会病理”などいってみるとき,病理とは多数派の偏見である可能性をつねに念頭におく必要があろう。とくにで“患者をとおしてみた病理”となると,あるものを病理と判断するのはわたしの感性だけである。ともかくも,社会的におかしいとわたしがおもったことをかくしかない。人あるいはそれをわたしの偏見というかもしれない。
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