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本稿の依頼を受けてから数日後,Elliot S. Valenstein教授(University of Michigan)から“Great and Desperate Cures”という題名の,出版されたばかりの338頁の著書(Basic Books,1986)が送られて来た。Subtitleは“The Riseand Decline of Psychosurgery and Other Radical Treatments for Mental Illness”となっており,大変な力作であ。記述内容からすれば,本題は「偉大かつ思いもよらぬ治療法」とでも訳すべきであろう。彼がこの本を書く計画を立てたのは1982年で,Psychosurgeryに関する3冊目の本として“The Early History of Psychosurgcry”の資料を集めているから協力を頼むということで,彼の質疑に答えた私からの文献や資料の送付は数回を越えるものであった。彼の手紙によると,1冊目の“Brain control”(John Wiley,1973)と2冊目の“The Psychosurgery Debate”(Freeman & Co.,1980)では,科学的,法・倫理的側面(scientific and legal-ethical aspects)を強調したが,今回は,世界中の資料を網羅してpsychosurgeryが広く普及した科学的風潮とその実態を,出来るだけアカデミックで客観的な形で表現するように心掛けたが,出版社の意向で上記のような表題になったのだという。彼はミシガン大学のPsychology and Neuroscienceの教授としてbrain stimulationを含めたpsychosurgeryとemotional behaviorの問題を,1960年代初頭から執拗と思われるほど追究して来た。彼との付合いは,1972年にアメリカの人権擁護を目的とする委員会(The National Commission on the Protection of Human Subjects in Biomedical and Behavioral Research)のスタッフから彼がpsychosurgcryの調査を依頼された時からであるが,直接会ったのは,1975年にMadridで開催された第4回World Congress of Psychiatric Surgeryで私が講演した時であった。以来,彼の熱意に絆されて,あらゆる資料の提供に協力して来た。今回の本のPreface and Acknowledgementsの中に,協力者として欧米の学者と共に私の名前が挙げられているが,日本における精神疾患に対する脳手術の創始者である中田瑞穂教授以来の正確な記載は,私の提供した資料によるものである。私の書斎には,1946年以来収集した欧米やオーストラリアのpsychosurgeryに関する本や論文別刷が数百冊に及んでいるが,彼はそのほとんど凡てを引用しているのに驚嘆した。昨年9月,私がPhiladelphiaで開かれた“Limbic System Surgery”に関するSymposiumのpanelistとして招かれた際に,故Walter Freeman II. が自らタイプした遺稿のautobiography(517枚)のコピーを遺児の一人から貰って来たが,それも既に引用されている。
さて,私が東大の精神科へ入局したのは1941年12月(開戦のため3カ月繰り上げ卒業)であったが,当時は精神分裂病についで進行麻痺の患者を診察することが多く,神経学的な疾患を勉強する機会にも恵まれ,眼底検査,腰椎穿刺,脳動脈写,さらに椎骨動脈撮影法までその創始者である高橋角次郎先輩から教わることが出来た。1942年6月から海軍軍医として熱帯の島で約4年間近く勤めたが,そこではメスを執る運命となり,それが後に精神外科という私のライフワークへのいとぐちともなった。このことが上記Valenstein教授との交流につながることにもなる。一方,空襲下に発生したいわゆる原始反応や反応精神病,ガンゼル症候群などの典型例を目前にして,電気痙攣療法の簡単な装置を急造してそれらの症例の治療に当たり,その劇的効果に驚いたり,高熱を発したり譫妄状態の患者に対しても効果のあることを経験した。入局して日も浅く精神医学の知識にも乏しかったが,現在の救命救急センターのような修羅場や,死期の迫った患者に対するアプローチの仕方も体験し,これらの生々しい体験から,現在までの長い研究生活に大きな影響を与えられたものと思う。1946年3月,教室に復帰して間もなく待望の松沢病院に派遣されたが,当時の松沢病院は正に精神疾患研究のメッカであった。先ず戦争末期の窮乏生活に耐えて生き残った不治の欠陥分裂病患者を収容した慢性病棟の受持ちと,次に興奮患者を収容した病棟(当時は狂躁病棟と呼ばれた)の経験である。当時の治療と言えば,専ら電気痙攣療法(ECT)であり,時にはCardiazol静脈内注射による方法も欠くことの出来ない手段の一つであり,幻覚・妄想状態にはInsulin昏睡療法が行われ,躁うつ病にはSulfona1による持続睡眠療法が適用されたが,うつ病の苦悩除去に阿片丸薬(Opiumpille)が併用されたりした。また抑制症状に対して覚醒アミン(ヒロポン等)が奏効するといわれ,殊に軽症うつ病に外来で投与されたことも忘れてはならぬ事柄と言える。進行麻痺に対してはペニシリンの入手が困難で,熱療法としてマラリア療法,ワクチン療法が使われ,後療法としてはサルバルサンの静注が行われた。夜回診にはヒオスチン(臭素水素酸スコポラミン)の注射が興奮鎮静に欠かせぬものであった。しかし,覚醒剤は戦後その乱用によって中毒者の大量発生が起こり,今更改めて言うまでもないことであるが,麻薬同様に取り締りの対象となったことは周知の事実である。松沢病院に勤めた頃,どっと流れ込んで来たアメリカの文献の中には前頭葉機能と精神外科に関する論文が多く見られたが,それに先んじて日本でも既に1938年に新潟医大外科の中田瑞穂教授によって,てんかんの精神症状や精神分裂病などに対して前頭葉切除手術prefrontal lobectomyが行われ,更に1942年にはFreeman-Watts型の前頭葉白質切截手術prefrontal lobotomy(or leucotoiny)の追試による結果が報告されていた。
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