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すでに述べたように,彼の殺人計画は1908年—1909年以来,まさに彼が1913年にそれを実行したとおりのかたちで,何時何分にいたるまで,きちんと決まっていたが,ただし何年間というもの,彼が攻撃をかけようとする段になると,実行力がいつもなくなった。ラーデルシュテテンにおける迫害があまりにつらくなったとき,彼はそこから大都市への転任を望んだ。理由として届けたのは,子供たちの成長だった。彼は教師として非常によい成績をあげていたので,1912年の春にはシュツットガルト郊外のデーガーロッホへ移れた。ラーデルシュテテンを去るときには,人びとは彼をしきりに引きとめようとした。彼は皆にとても好かれていたのだった。だれひとり彼のあやまちについて知る人はいなかったし,だれひとりとして今まで彼のことをあざ笑うとか馬鹿にする人はいなかった。夜おそくまでビールを飲んで彼が誇大妄想狂的な長広舌をふるっても,人びとは―時としていささか驚いたにせよ―結局は舌がゆるんだための無邪気な感情の発露だとして大目に見た。「精神病」と彼をみなす人はだれもいなかった。
デーガーロッホでは彼は自分の職務を最後の日まで忠実に果たした。それはともかく,彼は以前には突き棒を〔罰として〕用いるのは非常にいやがっていたのに,いらいらが高じると,懲罰権の限度を越えるようなことがたまに起こった。「あざけり」が新しい場所でも気づかれると,またもや心痛と怒りが生じた。なんとかして苦しみから逃れたいという彼の最後の希望は叶えられなかった。こうして,彼の怒りと復讐欲はいまや行為に出ることを迫った。けれども実行するのはますます恐ろしくなった。彼は自分の子供たち―手元の写真で見ると,ととのった姿のかわいい子供たちで,体つきや顔の表情に変質(Entartung)の徴候はない―をかわいがるようになっており,子供たちがそんなに早く死ぬ運命にあるなどというのは憐れなことだった。彼は子供たちに深い愛情を抱いていて「いろんなことを大目に見る」ほうだったし,クリスマスには身分不相応と思われるようなものを彼らに贈ったが,頭のなかではいつも子供たちに対して恐ろしいことをもくろんでいたのだった。夜,ひや汗でびっしょりになりながら,短刀をもって子供たちの寝台のそばに立つこともあったが,彼らを傷つけるところまではいかなかった。それだけになおさら彼は日記のなかで自分の弱さに怒り狂い,敵どもに復讐するとともに彼の一門全体を根絶すべく,みずからを鼓舞するのだった。彼がしばしば訪れた大都市〔シュツットガルト〕の郊外での活気ある生活はなるほど時として現世にいつまでも生きていたい気持を起こさせた。しかし妄想は安らぎをあたえてくれなかったし,創作も彼をほんの数時間しかその苦境から解放してくれなかった。復讐への,殲滅行動への義務が患者を実行へと駆り立てた。殺害行動を実際に起こすまえに,彼は日記の300ページ以上をフルにつかい,自分自身,自分の生活と思想,苦悩と敵たちのことをこまかく記録していた。拙著の76〜97ページとそれにつづく彼の戯曲『ナザレ人』からの抜粋を参照していただきたい。その戯曲のなかで彼はもう一度自分の性的なあやまち,それにつづく愚弄と侮辱,12年間にわたる迫害の苦悩すべてを描いており,その101ページのあたりがもっとも印象ぶかい。彼はその際しばしば自分の痛みのなかで感動的な言葉を見つけている。たとえば聖金曜日に「私の場合には一年じゅうが聖金曜日であり,私のさまよう場所はゴルゴタの丘である」と日記に書きこんだりする。反抗的な憎しみの感情は1913年7月の地震をきっかけとして狂ったように外へ溢れ出るが,そのなかで彼はつぎのように書きつけていて,Simson〔ユダヤの英雄サムソン〕を髣髴とさせる。
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