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皆さん! 精神病は脳病であり,精神医学は内科学の一部門である--という見解は,Griesinger時代以来我々には周知のことになっており,これに反論する医師は殆んどいません脚注1)。内科学は内科学でまた自然科学の一分野であり,その基盤となっているのは経験です。病理学に与えられている課題は,経験的事実のすべてを互いの関係のなかで,つまり相互の条件のなかで認識するということです。病理学は,その本質からして病態生理学であり,正常人の生理学の場合と同一の考察法に基づくのです。さて,現代生理学が一切の生気的な学説を排斥して身体的な生命現象を普遍妥当な分子機構の法則から理解しようと,つまり一切の器質的な現象を物理-化学的な変化から演繹しようと努力しているのは,理解できる,恐らく当然でもあるこの学問の自負なのです。神経系での事象も,この学問にとっては合法則的な経過をたどる運動現象に過ぎないのです。エネルギー保存に関する学説は,人間の大脳における複雑な過程さえも,錯綜した物理学的な出来事であると自然科学に考えさせることになりました。しかしこの場合,意識という現象の有無は全く顧慮されていません。あの全く陳腐な物質主義に凝り固まってしまうことを望まなかった者は,精神-身体平行論説の中にある一つの理論を見出しました。つまりその理論とは,研究者が得た自然科学的な確証を彼自身の内的経験と一致させることを可能にする理論です。しかし,一切の意識現象と結び付けられた物質的な脳事象は,一切の物質的な出来事と同様に物理学の法則に従うしかないのです。従ってそこでは精神生活が自然科学者から殆んど無視され続ける可能性があるということになります。と言いますのは,精神生活に対応した形で積極的に物質の運動現象が起こる場所などどこにも無いからです。内的経験とは,それ自体一つの世界であり,自然科学者がそのまま科学的な研究の対象となしえないものです。敢えてそれをやろうとすれば,彼は自分自身の本来の研究領域から離れてしまいます。
皆さん! 上に述べたことはまさに,我々の医学界においても科学的に正しいと認められる見解であり,その認識論的な特性をDubois-Reymondがすでに30年前に明らかにしております。先に述べました様に,精神医学は医学の一部門であり,医学自身は自然科学の一分野だと定義したとしますと,そこから意識という事象を無視し続ける精神医学に従事する時にだけ我々が自然科学者として厳密に科学的に対処しているのではないかという理論がどうしても出てきます。しかしながらこれは当然無意味な要請です。肝臓や腎臓の病理は,自然現象の認識が進めば分子機構の法則から恐らく余すところなく脚注2)把握されるでしょう,そして我々は我々が欲しまた必要とするものをなし終えるでしょう。しかしこの様な認識では我々の学問の課題は解決され得ません。我々が我我の患者で理解したいのは,なんと言いましても正常なものと病的なものとが一緒になっている感覚,感情,表象,意志表示といったものであり,単に彼らの脳皮質の分子変化だけではありません。このことから次の事が結論されます。即ち,我々の学問は,自然科学的な医学の一部門であるばかりではなく,大部分は自然科学者が取り扱わない別の研究領域であり,その研究が我々精神科医に課せられた義務であるような諸現象が含まれる分野でもあります。ここに我々の学問の特殊性があるのは周知のことです。しかしながら同時にまたここに,精神医学の認識の及ぶ境界が他の医学部門に比べてはるかに狭いという理由があります。何故かと申しますと精神医学以外の医学における認識の絶対的境界は,自然現象の認識の境界と直接的に関連しているからです。その時々の事実上の境界は,生理学が身体的な生命現象を自然科学的に解明し,機構化することに成功するにつれて拡がってゆきます。一切のものは物質の運動であり,かかるものとして原則的に認識可能です。しかしながら精神医学では,物質的な脳事象についての認識だけではなく,精神的な諸関連の探究ともかかわり合うという特有な問題と直面します。哲学界にあっては一元論的な世界観が,物質的な過程と精神的な体験との経験的な比較不能性から生じてくる一切の困難を解明し得るかもしれません。しかし我々精神科医は,この困難を回避するわけにはいきません。この困難をはっきり認識することは,我々の避けられない前提となるのです。この前提がなければ我々は絶望のあまりユートピア的希望や無責任な仮説に溺れてしまうのです脚注3)。
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