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1913年9月に驚くべき事件をひきおこして世界中を震撼させた教頭Wagnerは,1938年4月27日,悪化した肺結核のため,ヴュルテンベルク州のヴィネンタール療養所で死亡した。肺疾はすでに何年も前から始まっており,1930年以後は衰弱が次第に増していた。そのうえ骨結核(Spinaventosa〔風棘〕)がさらに加わった。死体検案によって重い肺の病気が確かめられた。彼の脳はSpatz教授のもとへ送られ,遺体のほかの部分は病理解剖ののち火葬に付されたが,これは自分で希望していたものだった。晩年,Wagnerは,自分の死期が迫っているのを感じて,非常に気むずかしくなり,手もとに置いていた原稿や戯曲の草案,手紙などの多くを燃やしてしまった。けれども,彼のものした創作のたぐいはみな私がよく承知していた。彼は晩年にはもう新しい作品をなにも仕上げなかった。地方裁判所の刑事部はすでに1914年2月に,Wagnerが精神病だという理由で彼に対する訴訟の却下を決定していたが,そこの所長は,私の求めに応じ,1909年から1913年におよぶ例の自叙伝3巻をふくめて,保存されていた彼の原稿類をのこらず私のところへ送ってきた。その自伝は,1913年12月に彼の鑑定書を作成した折,すでに一度私のもとへ提出されたものだった。1905年から1926年までのWagnerの戯曲は,3篇(『フローリアン・ガイアー(Florian Geyer)』『世界大戦(Der Weltkrieg)』『若返った夫婦(Das verjungte Paar)』)を除いて,おなじく私の手もとにある。これら3篇の戯曲は彼がおそらく破棄してしまったのであろうが,私はまえに彼から見せてもらったことがあり,したがってその内容を私はやはりよく知っている。
ところで,パラノイア患者Wagnerについては私はこれまで何度かくわしく報告してきた。1914年に彼に関して公けにしたの著書原注1)は「犯罪者の類型」という叢書(Hans W. GruhleおよびAlbrecht Wetzel編集)の1冊として刊行され,これには同じ患者についてのRobert Wollenbergの鑑定と「大量殺人」に関して編者の集めた資料とが一緒に載っているが,資料のほうはその後1920年にWetzelの手で補充された原注2)。私はWagnerがヴィネンタールへ移されてからもよく彼と会ったし,また彼と頻繁に文通を重ねてもいたので,彼のその後の運命を死にいたるまでのほとんど四半世紀にわたって私は追跡することができた。ミュンヘン医学雑誌(Münch. med. Wschr.)1914年633〜637ページに載った私の論文「症例Wagnerの学問的意義(Die wissenschaftliche Bedeutung des Falles Wagner)」は,患者が療養所に収容されてまもない時期に書いたものであるが,そのころ彼は,自分の処刑が免除されるような鑑定書を私が書いたことに対して,私をはげしく憎悪していた(「私はあなたに隠しだてしたくないのですが,あなたとWollenberg教授とは私が死ぬほど憎んだ人間の部類に入ります。私はあなた方ふたりを引き裂いてやりたいと思う時が多いのです」)。1913年12月,観察のためチュービンゲンにいたころからすでに彼は,ミュールハウゼン村とその男子住民に対する自分の憎悪に満ちた弾劾が私から妄想とみなされたことを,うすうす気づくようになっていた。そのことは当時すでに彼の機嫌をはなはだ損ねていた。ヴィネンタールから1914年2月25日付けで出された彼の手紙のなかの文句は,これに関連している。「あなた自身を私は,個人的に尊敬しているにもかかわらず,私の敵と見なさざるをえません。なにしろ私はまちがいなく嗅ぎつけたのですから。」彼は療養所のなかからくりかえしきわめて精力的に審理の再開を求めたのだが,結局は,公安を害する恐れのある精神病のゆえに監禁される身になり,はげしい憤懣をいだいた。彼が望んだのは,首を刎ねられることだった。そんなわけで,彼が病院へ収容されてからのはじめの数年間というもの,私への信頼をとりもどすのは容易ではなかったものだが,その1年まえの1913年の予審のころには私はまだ彼の信頼を得ていて,そのおかげで,彼がチュービンゲン大学に滞在していた6週間のあいだにその全生涯や思想や感情をすっかり知りつくすことができたのだった。1914年から1920年までの期間については私はかつて本誌〔Zeitschrift für die gesammte Neurologie und Psychiatrie〕に報告し原注3),当時すでに彼の妄想のある種の内容的な変遷と拡大を指摘したことがある。ついで彼が,みずからの悲劇的な拘留生活を文学の世界へ逃避することで克服しながら戯曲『妄想(Wahn)』を執筆したとき,これがきっかけとなって私は,さらに別の論文原注4)で,患者の妄想体系における変遷や,自身の思想の内面的な解明および作家としての評価を求めての彼の苦闘を,専門家たちにまざまざと示すことになった。だが,パラノイア論の分野からの論著をいくつか読んでみると,Wagnerとその病気の経過について私の構想したものが必ずしも明瞭かつ正確には理解されていないことが,のちに判明した。Kretschmerの『敏感関係妄想』という本は精細かつ貴重な知見を非常に多くふくんでいて,パラノイア論をたいへん発展させたが,このなかで彼がWagnerについて行なった記述も,症例の理解における多くの空隙をなお十分には埋め合わせていないように思われた。それにしてもKretschmerは患者を私自身とおなじくらいくわしく知っており,だから私の構想したWagner像の正当さと忠実さに対する信頼できる証人だったわけである。とりわけ,Wagnerの性格構造はもちろん専門家たちにとっても相変わらず十分明瞭になってはいなかった。これがきっかけになって私は,12年後の1926年に,Utitzの励ましにしたがって,「性格学年報(Jahrbuch der Charakterologie)」(第2巻と第3巻)に彼の性格とその精神的創造のくわしい叙述を寄稿する気持になった(「ある精神病者の文学的創造について(Vom dichterischen Schaffen eines Geisteskranken」)。しかし,これを発表したあとでも,Wagnerをほかの慢性の妄想患者とおなじく分裂病の周辺地帯に押し込んだり,彼を慢性分裂病の軽症例と見たりする考え方はなお消えなかった。そこで私は,1932年の秋,チュービンゲンでの第55回西南ドイツ精神医学会の折に,患者自身を皆に供覧し,2時間ほどの問診をつうじて彼に自分の-たびたび変化するとともに妄想のなかで拡大した-観念世界を説明させようという気になった。患者はこの目的のためヴィネンタール療養所から2,3日の予定でチュービンゲンの私のところへ連れてこられた。1932年10月22日のその会議の模様については,ほんの短い報告が神経学中央雑誌(Zbl. Neur.)67巻514ページ以下(1933年)に載せてある。患者をヴィネンタールからチュービンゲンへ一時的に移すという出来事は,ヴュルテンベルクの住民に思いもよらない興奮を呼び起こした。たとえば,新聞は近づきつつある患者の釈放(そういうことは一度も考慮されなかったのに)の及ぼす危険性について警告的な記事を載せたが,彼はそのためひどく不機嫌になった。彼は当時すでに体の病気も重く,衰弱していた。1932年に私がチュービンゲンで患者を供覧した折のことをまだ覚えている人は,Wagnerが当時,つまり発病から31年,例の凶行から19年の時点で,分裂病といえる徴候をいささかも呈していなかったと強調する私の立場に賛成するだろう。
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