- 有料閲覧
- 文献概要
大学の教職に身をおく筆者の処には毎年暮になると医学部卒業予定者の中から精神科を志す学生が研修医を希望して現れる。精神科医の不足の今日大いに歓迎の気持をもって相談に応じているが,学生の素直な質問の中にいつも自信をもって答えにくいことがあり,それは精神科医になってから働く就職口に心配はいらないかということである。学生はまだ精神科医療の現実を体験している訳ではなく,就職口についても他の科と同じ次元で比較している。その結果,国公立病院精神科,できれば自分の出身地の近くの国公立病院に勤めたいとか気軽に質問してくる。その際答えられるのは一般的なことだけで,精神科診療施設や患者数に比して精神科医は絶対的に不足しているのだから食べるのに心配は全くいらないと答えると,学生はそれでは満足した顔を見せない。そこで学生の希望には沿えないことを知りつつも我国の精神科医療の特徴と教室の関連公的病院の状況を説明することになる。即ち我国の精神病院の8割は民間立で,病床数の85%を占めていること,教室の関連公的病院精神科の数は多くないのですぐには希望に応じられないが,民間精神病院には充分就職口があるから心配はいらないし,外来診療所設立の途もあると伝える。しかし実際のところ,研修2年が終わってからすぐ民間精神病院へ就職した医師はなく,大学の医員や研究生になるか,関連公的病院に順番で勤めているのがほとんどである。民間精神病院の後継者もいるが病院の未来に対しては暗い観測を語っている。精神病院の未来が明るいものならば精神科研修を修了し,更に数年の経験を積み一人前になった医師はもっと民間精神病院に就職してよいはずであるが,事態はそうではない。民間精神病院は現実に我国の精神科医療の大部分を担っている以上,精神科医の第一就職希望になってもらう必要がある。分裂病の再発し易さや慢性化に対する治療の困難さ,リハビリテーションの難しさ,精神科医療に対する様様な阻害条件などは公的医療機関も民間病院も共通して直面している問題である。現代の精神科医療の目標は短期入院治療と外来通院,デイケア,訪問指導など在宅医療による社会復帰に置かれている。しかし我国では未だこれを阻害する条件が多くて一般には実践が充分でなく,かけ声に終わっていることが精神病院内に無力感が漂う一因になっているのではなかろうか。7年前まで筆者は東京都の嘱託医として生活保護の入院患者の審査を担当したが,その時社会的条件のため余儀なく入院を続けている患者が少なからずあることに矛盾を持ち続けた。今日でも似たような経験をもっている。地域に適切な職能訓練の場がないため外来とデイケアの段階に停まらざるをえない患者がいかに多いことか。我国の精神科全病床数は昭和40年度に国の方針で1万人当り20床を目標として努力するとされたが,それが達成されたのち要入院患者は28万人なので更に病床の整備に努めるとされた。そして病床数は50年12月末には更に27万8千になり1万人当り25.3床と増加した。それでも病床利用率は100%を超え,平均在院日数は473日(昭和49年)で年々増加している。この実態は依然として入院収容主義が継続していることを示していて,上述した今日の精神科医療の方針に照らしてみるとまことに奇妙な感じがする。
ところで1975年は英国においては精神医学の千福年となるはずであったとのことである。即ち英国では,1950年代からの精神病院の長期在院患者数の予測研究に基づいた地域医療中心の精神衛生計画によって,1975年には各地方の精神病院の病床数は半減し,コミュニティ・ケアと称される広汎なサービスが発展するはずであった。1960年代に発表された諸研究によると,6カ月から1年以上の長期入院患者数は確実に減少してゆき,あるデータでは長期在院者は16年で消える計算になった。そして長期在院の理由の約半数は純精神医学的理由,つまり精神病の重篤さにあったが,残りは身体病,精薄,社会的問題の合併か非精神医学的問題であったので,ホステルなど後保護の施設があれば半数の長期在院者はそこへ収容できると考えられた。従って政府は大型の精神病院は閉鎖し,精神病は将来,地区総合病院精神科とコミュニティ施設で治療できることを期待し,その施策を始めた。そしてその後の総合病院精神科の活動の報告もかなり有望な結果を示している。例えばロンドンの一病院の精神科は41床で11万4千人の住民に対し,精神科疾患のすべてを治療できたと報告し,患者を選別しない方針でも分裂病を含めて入院は平均2〜3週ですませ,その後はコミュニティ・ケアを与え,ホステル,福祉住宅や下宿などを宿舎とし,一人も長期入院患者にならなかったという。それ故デイホスピタルや老年病と老年性精神疾患へのサービスが前提となれば病床は1万対5床で充分であるといっている。別の研究者らはまた南北ロンドンのそれぞれの住民に対する精神科病床の必要数をコミュニティ精神医学の実践に立って調査し,長期入院患者は次第に減少し,10年後には当初の数の1%程になり,1985年頃には必要病床数は1万対10以下になるであろうと予測した。これらの精神科医療の結果と未来への展望は上述した我国の実態と何と隔絶したものであろうか。しかし我国の病院の在院日数の長期化の理由は,おそらく上述の英国の病院の長期在院者の場合と大同小異であろう。そうであるなら純精神医学的理由によらずに長期入院せざるをえない事情を病院の責任にされてはたまらないはずである。昭和44年度の厚生省による精神病院実態調査では一地区の在院患者調査が行なわれたが,社会復帰の可能性のないものが31.6%で,その中,退院先がないためのものは5%であった。この実態がもし社会に適切な中間施設があるとしたらどうなるのかを各病院で調査し発表したらどうであろうか。英国のFottrellら(1975)の一病院での調査では適切なコミュニティ施設が存在することを前提とすれば,身体的に丈夫な長期入院患者の40%は退院可能であるとしている。我国に社会復帰医療センターを増設させてゆくためにも上の調査は是非必要であろう。
Copyright © 1976, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.