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I.序論
対人恐怖症の病態変化の中軸に「恥」→「罪」→「善悪の彼岸」という倫理的問題がみられ,しかもこの変化とともに対人恐怖症がきわめてパラノーイッシュとなっていくことは,たいへんおもしろいことだと思われる。対人恐怖症と敏感関係妄想との類縁性についてはすでに高良3)が論じており,最近では笠原ら2)も臨床的な観点からパラノイアとの関連を指摘しているが,欧米で敏感関係妄想またはパラノイアといわれる臨床型と比べて対人恐怖症はわが国に比較的多くみられるばかりでなく,対人恐怖症の概念自体がかなり拡張可能であり,極言すれば人間とは対人恐怖的存在であるとすらいえなくはないのであって,実際,たとえばサルトルの『存在と無』などで対人恐怖症的な存在論が展開されているのを見れば,そのような拡張は可能であり,そうだとすれば,わが国の臨床は対人恐怖症をめぐってパラノイアというきわめて人間的に興味ぶかい問題を考究する格好の地盤となり得ると考えられる。
ところでパラノイア問題は,現代の精神医学においてはなはだ肩身の狭い思いをさせられており,パラノイアなど存在するかどうかすら疑問であると見なす論者もいるくらいである。私は,このような考えは精神病を疾病概念の中にほうり込んでかえりみない誤った臆断の現われと見ているが,それはともかくとして,このような現状をもたらしたものにクレペリンのDichotomieがあった。ところがおもしろいことに,このDichotomieの片割れである実体概念としての精神分裂病あるいは躁うつ病の存在にすら疑いが投げかけられているのが,現状なのである。としてみれば,パラノイアが存在するかどうかという実体の有無を問う前に,この混乱をもたらしたクレペリンのDichotomieとこのDichotomieを生み出したパラノイア問題の歴史そのものをあらためて検討しなおすことが必要であろう。そのさい,たんに学説の紹介や批判的な考察や概念の置き換えを行うにとどまらず,具体的な症例に基づいて積極的な観点を提示することが大切であり,以下の考察では,まず対人恐怖症をとおして私の観点を明らかにし,その後で精神医学におけるパラノイア問題の意義を論考していこうと思う。第1報および第2報で対入恐怖症の精神構造を愛と倫理の面から考察し,第3,4報でそれとの関連のもとにニーチェの病跡に検討を加え,最後にパラノイア問題を取り上げることにする。なお,ニーチェの病跡の部分は雑誌『思想』に『精神医学からみたツァラトゥストラ』9)という題名で先に出たので,記述を簡略化するために,予定を変更して『思想』誌の論文をふまえたうえでこの論文をあらためて書き直すことにした。この論文の病跡の部分ではニーチェ自身の精神医学的考察を中心にすえ,さらにその後出た安永の三島由紀夫論11)をも参考にしながら,両者の比較病跡学的検討を行うことにする。
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