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私が精神医学の道に進んだ大きな理由は,人はなぜ自殺するのかを知りたかったからです(拙著「人はなぜ自殺するのか」,勉誠出版,2006年)。1991年に大学を卒業し,帝京大学の風祭元教授が主宰する精神神経科学教室に入局した私は,自殺に関する論文を読み始めました。その中で,当時の私に大きな衝撃をもたらしたのは,アメリカインディアン(先住アメリカ人)とエスキモー(イヌイット)の非常に高い自殺率の報告でした。在日韓国人三世としてのアイデンティティの有り様で悩み苦しんでいた当時の私にとって,彼らの高い自殺率は消え行く少数民族の悲哀として映り,心を強く揺さぶられました。在日韓国人の自殺率も高いかもしれない,直感的にそう思った私は,在日韓国人の自殺に関する論文を検索しました。それを直接のテーマにしている論文は見当たりませんでしたが,在日韓国人の死因を調査した論文を1つ見つけ,日本人よりも高い自殺率が記されているのを目にしました。私はどこに向けていいのかわからない悲しみと憤りを感じました。少数民族の高い自殺率を社会問題と考えた私は,社会精神医学に関心を持つようになりました。
風祭教室の研修医でしたが,筑波大学の小田晋教授(当時)の社会精神医学教室の勉強会に参加してみたいと思いました。このことを風祭教授に相談したところ,教授は快くその手配をしてくださり,月に1度,小田教室の勉強会に参加できることになりました。小田先生の博識ぶりはつとに有名ですが,勉強会のコメントにもそれが遺憾なく発揮され,遠路筑波まで出かけることも全く苦にならない内容でした。しかしそれも束の間,ほどなく私は英国ケンブリッジ大学留学に発つことになっていました。私にとって最後の勉強会の日,偶然にも小田先生も勉強会の後に東京に向かわれるとのことで,筑波から東京まで同じ電車でご一緒させていただくこととなりました。私の話にじっと耳を傾けてくださる小田先生に,私は少数民族の精神医学的問題や自殺問題のみならず,自分のアイデンティティの悩みまで打ち明けました。私が話し続けたためか,小田先生はほとんど何も言ってくださらず,電車が東京に着く直前に「Franz Fanonを読みなさい」とだけ言い残されました。Fanonのことを全く知らなかった私にとって,それは謎めいた宿題のようでした。「精神医学事典」(弘文堂)で早速Fanonを引いてみると,なんと小田先生ご自身がその項目を執筆されていました。Fanon(1925~1961)は仏領西インド諸島生まれの黒人精神科医で,植民地状況における黒人の精神状況を分析し,植民地状況が「精神障害の大いなる供給者」であることを指摘したとあります。また,Fanonはアルジェリア解放闘争に参加し,暴力革命の指導的な理論家になったと同時に,戦争中の植民者とアルジェリア人双方の反応性精神障害の諸事例を報告し,真の意味での同時代に対する「参加する観察者」だった,と小田先生は書かれています。
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