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脈管系の主役は動脈であり静脈であろう。心臓から駆出された動脈血が臓器を一巡し,静脈血となって心臓に帰ってくる間に臓器は酸素や栄養物の供給をうけ,生命を維持するための代謝をおこなう。この過程で第三の脈管であるリンパが果たす役割が生じてくる。しかし,一般にリンパはかなり大雑把に考えられており,時には見向きもされないといっても過言ではない。その理由はリンパの役割が主に血液循環に伴う二次的なものに終始している故でもあろうし,派手にわれわれの目に留まらないということもあろう。一方,動静脈の循環を離れてリンパをみると癌の転移の如くリンパ路やリンパ流は極めて重要な役割をもっている。またリンパと言えばすぐに連想するのが浮腫である。私がかかわっている外科の分野でリンパ浮腫は今もって治療が難しい。昔,手術しても醜形をのこした象皮病の少女の脚を見て哀しかった。ファロー四徴症の手術後に乳糜胸となって手を焼いた事もある。保存治療をあきらめた内科から外科に転じた蛋白漏出胃腸症の扱いにも迷った。このようにリンパに関連した疾患は時に想い出したように私共にその存在をアピールしてくる。しかし,今私がかかわりをもっているのはこのような疾患ではなく「心臓のリンパ」である。心臓にもリンパがあるのかと問われることもある。心臓リンパの知見の大部分は研究の域を出ていないが一部は臨床に応用しうる可能性がようやく出てきた。私が心臓のリンパに興味をもったのは心臓移植実験で取り扱う保存心の浮腫からである。心臓は灌流保存すると重量が増加する。また再灌流をすると障害があるものほど浮腫はつよい。このような保存心に強制的に拍動を与えると浮腫は軽減し機能はよくなる。同じようなことは摘出保存心でなくてもおこり,その際の心臓リンパは流速も流量も増加する。浮腫形成にはリンパが関与し拍動というsqueezeの動作は心臓リンパを移動させ浮腫はとれていく。浮腫が高度となった保存心の蘇生率は低い。このような現象に気づき心臓のリンパに興味をもってもう15年が経った。最初は心臓移植実験の副産物と考えていたが今は独立して研究に当たっている。遅々として進まないながらも心臓リンパはますます侮り難くなってきた。いろいろな事象に共通しているようにsilentなものは微妙な時になってはじめて重大な存在価値を発揮する。心臓リンパは心臓のcriticalな病態でこそ大切になる。普段は気づかないが,silentなものに焦点を合わせてみると全く別の視野が開ける。心臓のリンパはまさにそのような印象を与える。心臓の非生理的な状態では心臓リンパは産生も流量も増加し,その中には血清中の数倍,時には十倍を越える心筋逸脱酵素が含まれていたりする。私どもはこれらの知見を逆手にとって,日常心臓外科の手法として頻用しているcardioplegiaを心臓リンパの病態生理を通して検討してみた。その結果,臨床で好成績をあげている方法が心臓リンパの観点からも優れていることが判った。ここ何年か私どもは心筋虚血と心臓リンパの関係を追究している。この研究で心臓リンパは心筋梗塞の進展に原因となり,結果となって関与していることが判明した。心臓が生理的に平衡のとれた状態から破綻をきたすと,それを修復するために心臓リンパは大きな役割を演じる。虚血心の心臓リンパを流出するように誘導すると梗塞領域の拡がりが抑制される。反対に心臓リンパをうっ滞させると梗塞領域は拡大する。心臓リンパは地味な存在だが私にとっては極めて興味深い研究課題である。日常の心臓手術でも,人為心停止,低体温,阻血,冠血行再建,再灌流,人工心肺からの離脱,カテコールアミンの使用,等々,ひとつひとつが心臓リンパに関連を有する。心臓の病態生理と心臓リンパとの関連に多くの人の関心が集まることを期待している。
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