- 有料閲覧
- 文献概要
南泉和尚のもとで長く修行していた長官がある時,“「天地は我と同根,万物と我と一」という言葉がありますが不思議でございます.”と言った.南泉はそばにある花を指して「皆さんは,此の一株の花を目にしていても,まるで夢を見ているようなものである(本当に見たとはいえない)」と言った.「人は花を見,花は人を見る」でなければ花を目の前にしても,夢を見ているようなものである(如夢相似).見る者があり,見られるものがあり,この両者の結合こそが見るということの本質である.花を真に「この花」として観るには,花と一体にならなければ見えない.そのとき花が何かを語りかけ,花が「この花」として見え,花がいろいろなことを語りかけてくれる.見る,見られる,それらの結合は三(神,キリスト,聖霊)にして一,一にして三というキリスト教における三位一体に通じるものがある.分かりやすい喩えで言えば,「愛するものと愛されるもの,その結合が愛の本質である」.
内視鏡検査では見ているものが正常か異常か,異常なら病的か否か,病的ならどんな病気かと診断を進める.病変を一つ見つけても,他にもあるはずという注意を忘れず,全体と部分を循環させて検査を進める.全能力を挙げて,全経験を動員して視る.「心の働きは形がなく,十方に通貫す.眼にありては見るといい,耳にありては聞くといい,鼻にありては香を嗅ぎ云々.もとよりこれ一つの心が分かれて六つになったものである(『臨済録』)」.視る準備ができていると相手も答える,病気が「ここです」と声を出してくれる.胃腸粘膜が術者に依存している,すなわち内視鏡医が来るのを癌が待っているときに診断ができる.そのことを「癌の声を聞く」と表現した.身心を挙げて色(たとえば胃腸粘膜)を見取し,身心を挙げて(癌が発している)声を聴取する.癌を何としてでも見つけよう,という主体性とともに,粘膜が語りかけてくるのをじっくり待つような面もないと小さな癌は見つけ難い.自己を空(くう)にして相手が語りかけてくるのを辛抱強く待つという胃粘膜との対話.よく知ろうとするからには人間同士の場合と同じで相手に対し関心があるはずである.愛情をもって見る者に対して,胃腸粘膜は答えてくれる.(長廻紘 : 癌の声を聞く.文光堂,2007)
Copyright © 2013, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.