一冊の本
「フォークナー短編集」—龍口 直太郎訳,新潮文庫
長井 苑子
1
1京都大学結核胸部疾患研究所・内科2
pp.353
発行日 1987年2月10日
Published Date 1987/2/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402220830
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大学なる所に籍をおいて6年目.私の一週間は,ちっぽけな京都盆地を車であちこちの診療所,当直室を回ってめまぐるしく過ぎていく.合間の時間を有効に大学での臨床と主に臨床研究にあてる.この時間がもっと欲しいのだが,大学だけではとても食べていけないことと,加えてもっとムダ遣いをしたいという欲望がらみの生活パターンである.
夏の京都は,8月末になっても酷暑の日もあり,西日の当直室は居心地よいものではない.夕方,陽がやわらいで旧街道筋に並ぶ新旧とりまぜての店々の灯がともり出す頃,行きかう人々の姿も多くなる.当直室を抜け出して私もその一人に加わり,小さな本屋の棚に並ぶ本をひとしきり眺めることにしている.今日はフォークナー短編集を買った.ショルダーバッグに放りこんで街道筋へ出て,この界隈で一番古ぼけた佗しそうな食堂を選んで入る.小さな風鈴が褪色しきった趣の店内に涼やかにひびき,その音とは対照的に太い声のおばさんが「おこしやす」と現れる.隅っこの机に坐って注文をすませ,時折の蚊の来襲に気を取られつつ,フォークナー短編集をとり出した.この本には,1920〜30年代のアメリカ南部の人々のクラーイ8編の話が描かれている.アンクルトムの小屋からアラバマ物語(モッキングバードを殺すこと)などでおなじみの,白人と黒人,インディアンなどの人種をめぐる問題が,今も尚,某国の首相がいみじくも指摘して物議をかもしたような生活全般のレベルの低さの中で荒削りなままに息づいている.
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