天地人
印刀さばき
聖
pp.1713
発行日 1982年9月10日
Published Date 1982/9/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402217942
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私は,30歳半ばの復員姿の男の左手に持たれた印刀の慎重かつ微妙な動きに見とれていた.昭和21年の春であった.戦災の跡も生々しい東京・渋谷の道玄坂,後に恋文横丁と呼ばれたあたりの入口に近い路傍であつた.闇市が賑い,街娼が袖を引いていたころである.男の右腕は戦火で失ったのであろうか,手関節から切り落とされて,カーキー色の袖口で隠されていた.男の前には,「ハンコ彫ります」とかいた看板ともいえないボール紙が置かれていた.彼の隣りに陣取った靴磨きと同じの三尺四方が彼の店ともいえるもので,騒々しい人通りであつた,注文があれば,その場で残された左手一本で彫り上げるのだが,私の頼んだ印鑑を仕上げるまでに20分とはかからなかった.私の姓名の名の方を平仮名で彫ったもので,字体も良く,すでに35年以上も気に入って使っている.9mm角の黄楊の印材に彫つた印鑑である.いまも道玄坂を歩くと,戦闘帽の日焼けした男の姿を思い出す.
わが国で使われる印材は,象牙,水晶,水牛,つげ材が多い.他に篆刻や落款印用に石印材も用いられている.石印材は実用以外にも愛されていて蒐集家もいる.石印材の本場は中国で,揚子江の南,福建省寿山郷の寿山石,浙江省青田県の青田石,昌化県の昌化石などが有名である.これらの印材は印房の店頭にも見られるし,最近よく開かれる中国物産展などでも手に入れることができる.
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