連載 ヒトとモノからみる公衆衛生史・17
健康増進と「人生の最終段階」・2—「運動」「努力義務」そして「個人の尊重」
柏﨑 郁子
1
1東京女子医科大学看護学部
pp.1058-1062
発行日 2024年10月15日
Published Date 2024/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401210402
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はじめに
前回は、「健康寿命」の延伸が「不健康状態の圧縮」である場合には、社会保障費の削減という政策の方針が見え隠れするということを述べた。仮に、そのような政策が、市民に対してあからさまに示されるなら、当然、個と公共、つまり市民と政府の対立という古典的な公衆衛生倫理のテーマが再浮上するであろう。倫理学者の児玉聡は、米国の公衆衛生学会の倫理綱領を引きながら、「公衆衛生における最も大きな倫理的問題は、感染症予防や健康増進活動に伴って個人の自由を制限することがどこまで許されるかというものであろう」1)と述べている。しかし、20世紀以降においては、特に1970年代以降、オタワ憲章、アルマ・アタ宣言にみられるように、プライマリ・ヘルスケア、一次予防、コミュニティーベースの公衆衛生がさかんに提唱されるようになってからは、「介入」ではなく市民の「自発性」が射程にされてきた2)。つまり、感染症対策を除く公衆衛生の倫理的問題の焦点は、「個人の自由を制限することがどこまで許されるか」というよりも、市民の「自発性」に「制限」の原動力が委ねられている点にある。したがって、社会保障費の削減という政策の方針に対しても、実際には個と公共の対立は生じない仕組みになっている。
そこで今回は、公衆衛生に関連した政策において、自主的な「運動」、強制のない「努力義務」、そして自助を前提とした「個人の尊重」という方法が採用されており、個と公共の対立は生じない仕組みになっていることを確認したい。
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