公衆衛生人国記
高知県—駐在保健婦制,汗と涙の40年
石川 善紀
1
Yoshinori ISHIKAWA
1
1高知県中央保健所
pp.66-68
発行日 1988年1月15日
Published Date 1988/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401207608
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昭和62年7月,高知県の駐在保健婦制度を育ててきた上村聖恵女史が亡くなった.行年67歳であった.同女史は大正9年,高知県に生まれ,看護婦を経て,昭和17年に高知県保健婦として一農村に勤務した.当時の農村での保育環境の劣悪さを眼のあたりに見た上村は,県下初の農繁期保育所を実現させるなど,将来の資質をうかがわせていた.昭和23年には県衛生部の発足とともに看護係として,駐在保健婦制度の確立に寄与した,昭和31年からは保健婦係長として,22年間にわたり県下の保健婦活動を指導してきた.昭和51年からは日本看護協会保健婦部会長,以後,職能委員長,第二副会長と要職を歴任し,全国の保健婦活動の指導者として活躍してきた.また昭和57年からは琉球大学保健学科にて保健婦教育にも情熱を傾けている.このように戦後の高知県,さらには全国の保健婦活動の発展に歴史的な役割を果たしてきた.
高知県では,上村を育て,駐在保健婦制度や看護大学の設立に決定的な役割を果たしたもう二人の人物がいた.日本公衆衛生協会会長,藤風協会理事長の聖成稔氏と高知女子大学名誉教授の和井兼尾女史である.
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