発言あり
親子
pp.513-515
発行日 1974年10月15日
Published Date 1974/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204892
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血縁だけが絆か
「もらい子を,心をこめて育てても,大きくなって自分が実子でないことを知ったら,どんなに深い傷を受けるだろう」,「なんとか,もらい子であることを,一生気づかせずにすむ方法はないだろうか,私たち親は,実の子と思っていつくしみ育てるのだから」,「近所にも,ようやく妊娠したと触れまわり,毎月すこしずつ下腹をふくらませ,いよいよ臨月と称して実家に帰り,そうしてこの子をえて帰ってきたのです,いまさら,もらい子だなんていえますか,第一,子どもが可愛想ですよ」,「それでも戸籍の上に,どうしても残ってしまうのだ.どんなにかくしても,何かの機会に戸籍を見ることがあったら,一切の努力も消えてしまう」,「いっそのこと,戸籍そのものを,実子と記載できるように,工夫すればいいのよ」「だけどそれは違法でしょう」,「なにいってんのよ,法律は人は生かすためにあるのよ」,「もらわれた子,育てた親,みんなしあわせになるのだから,法律を変えるのが本当だ」,「そうよ,養子でも実子とできるようにすればいいのよ」.
以上のいくつかの会話的短文の,共通の底流をなしている論点はなにか.第一に,もらい子は不幸であるという不動の前提がある.おそらく,このような会話をかわす人ほど,「あの子,もらい子だってね」,「奥さん,二度目らしいわよ」,「だから下の子は連れ子よ」,「ほら,お父さんに全然似てないでしょ」などの詮索に熱中するのであろう.
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