特集 都市化のなかの保健活動
都市と保健問題
杉原 正造
1
1川崎中央保健所
pp.281-287
発行日 1968年8月15日
Published Date 1968/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401203717
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はじめに
明治13年に日本の人口は1,300万人,最も人口の多かった県は新潟県で155万人,ついで兵庫139万人,愛知130万人,広島・千葉・福岡・大阪といった順で,東京は96万人,第12位だったと,佐貫利雄氏は「都市と人間」のなかで述べている。いうまでもなく,当時の人口集積のささえは農業であった。大正9年の第1回国勢調査によると,人口は5,500万人,東京は217万人,大阪125万人となったが,100万人以上の都市は他にない。それから45年たった昭和40年には人口は9,800万人と,1.8倍にふえ,100万人以上の都市は7市もある。この間にふえた4,300万人のうち約7割にあたる2,800万人は,関東・東海近畿を総称した大都市圏に集積している。また全人口のうち3,500万人,約3割6分の人口は東京都区部と大阪以下6指定市,川崎以下23政令市と浜松他26市の合計56地区が占めていることになる(表1)。都市への人口集中はとどまることを知らず続いている。このような急激な人口変動は否応なしに,各種の都市問題を惹起する。市民はいやでもこれにまきこまれて,その平和な生活と家族の健康は日夜阻害されてゆく。京浜工業地帯の中心として東京・大阪につぐ工業生産出荷額をあげ,人口100万人を目前に控えた川崎市をある著名な都市学者はこう評している。
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