醫藥隨想
勞働衞生の回顧
暉峻 義等
1
1前勞働科學研究所
pp.21-22
発行日 1952年8月15日
Published Date 1952/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401201085
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私達の醫學生であつたのは,明治の末から大正の初めにかけての時代あつた。正に日本の資本主義的發展の最盛期であつたのである。工業は紡績,製絲が主であつたが,製鐵,機械,造船,造兵という重工業は勿論,その基礎をなす鑛炭山も着々その資本的基盤を増大し,すべてが最大の利潤をめざして躍進していたのである。ひどい資本の偏重と勞働の搾取の時代であつたのである。この時代の中における醫學の教育,醫學の研究,醫術の實行はこれらの社會的環境とはおよそ縁のないものであつた。醫學はこの資本主義的に躍進する工業の現場には眼を向けることすらなかつた。國民全體をあげて工業的に進んでいる時代に,工業は資本と生産手段と勞働との3要素から成立しているという,社會科學の最も普遍的な原則すらも,醫學生は知らずに醫師となり醫學者となつた。醫學生も教授も,工場でいかなる勞働が日夜行われているかを見たものはなかつた。その人間の勞働力の搾取がやがていかなる暗影を國民全體に及ぼすかなどいう問題を聞くべき機會は絶無であつた。青山先生や入澤先生が時々外來診察の時間に診察の傍すばらしい社會批判を試みて,學生を悦ばせた。「東京は今に下水と糞攻めになるよ」などはその一つであつた。醫學の研究は自然科學的方法―とくに物理學化學の方法の醫學研究への導入に沒頭していた。あくまでも個人を對象とする科學的醫學の方向づけであつて,集團醫學―醫學の社會的方法などはその片鱗もなかつた。
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