論説
スポーツ醫學
齋藤 一男
1
1日本醫科大學整形外科教室
pp.193-198
発行日 1949年10月15日
Published Date 1949/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200536
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整形外科學は本日では「機能」をとくと考える學科となつた。その昔といつても24,5年前のことであるが,自分が恩師高木憲次先生の下に整形外科を專攻するために,その門下に加えて戴いた時は,日本全體のスポーツ熱も今日程は熱してはいなかつたが,先生は自分に「スポーツ」なる課題を與えられた。恐らく,自分が學生時代スポーツ全般に亘り,特にボートには關係が深かつたためであろう。そこでスポーツによつて來る外傷を先ず研究すべく,その材料を集むるに意を用いることにした。
幸い昭和2年夏,上海に開かれた第4回極東オリンピック大會へ自分が救護班員として役員に加えられ,選手諸君と共にダラー,ラインのコレア丸にて派遣されたことがある。一行200人以上の大部隊であるが正式の救護班員は自分一人(これ迄は正式の救護班員は問題にならず誰も行つたことがない。即ち醫師等は遠征にはぜい澤のもの位に考えていたらしい)であつた。上海の宿舍一各部毎に異つた場所のホテル—當時傳染病の根源地と云わるゝ位の土地で治安は滿點ではない。それに加えて競技場設備不完全或は競技役員そのものゝ智識も餘り向上していないらしい樣子であつた。そのためハイジャンプの臺の大きさが大き過ぎ,その上バーの距離が短かかつたりしたため,日本選手が跳び降る際に踏臺で腓骨を折つて足關節の脱臼を起した。
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