論説
Social Worker設置制度の提唱
野邊地 慶三
pp.433-434
発行日 1947年4月25日
Published Date 1947/4/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200130
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日露戰爭の大勝は我國に産業革命を招來した。その結果集團勞働者の生活が不良化し,又た國民の貧富の差が大になつて,貧民層が増大し,その對策として社會的援護の必要が大となつて來た。そして前世紀の終りにGrotjahn,Teleky,Gottstein等の提唱によつて獨逸に勃興した社會衞生の流れを汲んで,大正年間から昭和時代に互つて我國は社會衞生時代となり,昭和13年に設けられた新省に厚生省の名稱が附せられるに至つたのである。此の時代には醫人の社會衞生に專念する者非常に多く社會事業も醫人の關心事であつた。
然るに支那事變の勃發と日獨同盟とは時の獨逸の民族衞生時代を我國にも傳來し,社會局が生活局と改稱せられるに至つた。そして醫人は社會事業方面から殆んど足を洗ひ社會事業は醫人の關心事外とされた觀があつた。公衆衞生を業とする醫人は所謂衞生三局に集つて保險局には僅に一,二を數へられるに過ぎず,再生の社會局には一人の醫人も專屬されなかつた。斯くて公衆保健局,醫務局及び豫防局の通稱衞生三局が公衆衞生の主管局と見做され,社會局及び保險局と對比するものと解されるに至つた。新憲法第25條にも社會福祉,社會保償及び公衆衞生と,公衆衞生は社會事業と併舉されて居る。即ち公衆衞生と杜會事業とは厚生行政の二分野と理解されて來て居つた。
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