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大学を卒業して,白衣を着て病院で働き始めると,なぜか「先生」と言われるようになる。私は心理士なので,自分の中では「医者は確かに先生だけど,心理は先生じゃない」という意識を持っていたが,そんなことは関係なく,患者さんにも,他のコメディカルにも,時にはその「先生」の最たるものである(?)医師にさえ,「先生」と呼ばれることがある。あぁ,何だかすごい違和感。どうして自分は「先生」なんだろう。そんな偉くなったつもりもないし,そんなにすごいことができるわけでもないのに。
さて,上方落語に「親子茶屋」という噺がある。物語は道楽者の若旦那がの旦那である父親にこっぴどくお説教をされる場面から始まる。しかし,実は堅物のように見えた父親は若旦那以上に遊び好きだった。若旦那はお茶屋の二階で芸者をあげて派手に遊んでいる年配の男性を見かけ,自分の父親くらいの年齢なのに粋な人だと同席させてもらうことにするが,いざ対面すると親子だと判明し,父親の面目が丸潰れになってしまうのである。
私は十代の頃にこの噺を初めて聞いた時,これは普段偉そうなことを言って,周りを怒っている人であっても,実は自分だって裏で勝手なことをやっているという,権威のを描いたものとして理解した。ただ,もう少し年を経て,亡くなられた桂枝雀の音源を聞き返した時に,この噺はそんな単純なものではないかもしれないと思い返した。枝雀は噺のまくらで自分の息子が昔の自分と同じように小学校の先生に淡い恋心を抱いていると思った時「ちょうど私のあの時が,今のこの子のあの時やねんな」と感じたのだという。そこから,枝雀は人はそのように繰り返しており,「子どもがいつまでも子どもじゃなくて,ちゃんと子どもの時は子どもの役をするけれども,それが青年の役もし」「大人の役もし,そして老人の役もし」「死んでしまう,という役もするというような,すべてがまあ,役であるな」と考えをめぐらせる。
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