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I 被害をなきものにしてきたのはこの社会,私たち自身である
LGBTIQA+の性暴力サバイバーに特化した形での活動を始めて15年ほど経つ。それ以前から女性を中心とした性暴力サバイバーの当事者団体で活動をしていたが,やりがいを感じつつも,常に葛藤があった。性暴力サバイバーのセクシュアリティも加害者のセクシュアリティも実際には多様だが,支援に関わる語りは性別違和のない異性愛者を前提にされていた。同性間の被害は不可視化され,あったとしても,(男性から被害にあった男性は同性愛者になってしまうのか,という問いに対し)「被害によって同性愛者になることはない」「性的指向は不変のものなので安心して」というような,異性愛者視点での語りであった。すでに異性愛者ではないと自認している者にとっては,行き場のない思いを抱えることもある言葉である。「加害者」といえば男性,「被害者」といえば女性を指すのが当たり前で,その逆は想定されていないか支援の対象外とみなす傾向があった。しかし,「このままでいいのだろうか」という葛藤を言葉にしても,「まずは女性から」と言われることが多かった。そしてこのときの「女性」には,トランスジェンダーの女性は含まれていなかった。「性的マイノリティ」が常に後回しにされ取り残される状況に,果たして順番が回ってくるのか正直疑問だ,とも思っていた。
そうしたなか,海外の情報で,LGBTIQA+の性被害率の高さが多くの調査結果からわかってきた。現在でこそ日本国内でもこうした調査結果が紹介されることは珍しくなくなったが,「まずは女性から」が急務とされた当時の日本で,「女性=トランスジェンダーではない異性愛者の女性」以外の被害に注目したデータに触れること自体が新鮮で画期的だった。「女性支援」というフレームだけでは語りきれていない性暴力があるという私の問題意識が明確なデータとして表れていた。データは,サバイバーたちの声そのものに見えた。
昨今,LGBTIQA+に関する性暴力の語りは,新しい語りのように思われることも多い。しかし,男性の性暴力被害であれ,LGBTIQA+のそれであれ,いつの時代もその存在は認識されていたと感じる。例えば最近国内においてジャニー喜多川による性加害が取り沙汰されるなかで,「男性への性暴力」が新たな課題のように取り扱われ,支援体制の構築が急務であると報じられもするが,ジャニー喜多川の性加害報道は,今になって初めて出てきたものではない。私たちの社会は,男性の被害,そして男性間の性暴力について,見て見ぬふりを決め込み過小評価していたに過ぎない。被害がなかった,そして今になって増えたのではなく,なきものとしていたのである。

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