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大正年代に旧満州(現在の中華人民共和国の東北)の奉天(現瀋陽)に二つの医学校があった.満鉄(南満州鉄道)が設立した南満医学堂と,1882年に奉天にきたスコットランドの合同長老教会の伝道医師クリスティが作った奉天医科大学である.南満医学堂は1911年11月に開校され,現地の医師を養成するために作られた(図1).初年度の入学者は日本人20名,中国人8名であった.1922年5月に,予科3年,本科4年の満州医科大学に昇格した.別に中国人学生を対象とする専門部(4年制,1学年定員40名)も設置した.日本の敗戦とともに閉学したが,1945年までに2,600人有余(うち中国人は1,000人)の卒業生を輩出した1,3).一方,奉天医科大学は1912年に開校された.教員は中国人と英国人で,中国人の医師を育成するために作られたもので,初年度入学者50人は全員中国人で,3/4はキリスト教徒であった4).
南満医学堂の教員としてここに記載できる医師は,山田基先生と太田正雄(木下杢太郎)先生の2人である.山田基先生は,藤田保健衛生大学分院整形外科准教授・山田光子先生の祖父にあたり,1902年に東京大学を卒業し,軍医を経て,1907年に東京大学内科に入局した.1910年10月,安東満鉄医院長を経て,1914年11月に第2代南満医学堂の堂長兼奉天満鉄医院長となり,1920年8月に長崎医学専門学校長に転じた5,6).一方,画家(図2),詩人で有名な木下杢太郎,本名太田正雄先生は1911年3月に東京大学を卒業し,1912年7月に東京大学皮膚科に入局した.1916年9月に南満医学堂皮膚科教授として来満し,4年間学生の教育と診療に従事した7).奉天という土地が芸術的感興を与えなかったためか,奉天では詩集『食後の唄』を刊行したが,医療に没頭していた8).太田先生が報告した眼上顎褐青色母斑は太田母斑と呼ばれ,世界的に認められている.
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