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今,1988年4月25日発行の「脊椎脊髄ジャーナル」第1巻第1号を手元に置き,懐かしさに浸りながら書いています.この伝統ある雑誌,その巻頭を飾る「Nomade」への寄稿を依頼されたとき,光栄と同時に畏れ多さに震えましたが,懇意にしていただいている複数の編集委員の先生のお顔が浮かび,一晩考え,前者が打ち勝ち,また,私が研修医2年目の創刊で,私の医師人生とともに歩んできたという勝手な身贔屓もあり,喜んでお引き受けすることとしました.しかし,重圧に筆が進まぬうちに締め切りが近づき,案もないまま書き始めましたが,この執筆機会と,整形外科・脳神経外科(脳外科)両科による脊椎脊髄外科専門医制度が始まるときが偶然にも一致したという感慨があります.
創刊号の特集は「脊椎脊髄のMRI診断」です.入局当時は大学病院ですらMRIがなく,研修医が付き添ってタクシーで半日かけて,近畿で唯一MRIを保有する病院に撮像し帰ってくるという時代でした.私は脳外科ゆえに当然ながら頭部疾患が主たる研鑽対象でしたが,当時編集委員であったKT先生が大学近くにおられたため,脊椎脊髄疾患の診療も経験させていただく機会がありました.その後,KT先生のもとで経験を積まれたTS先生に手術用顕微鏡を用いた頸椎前方固定術や腰椎椎間板ヘルニア摘出術を中心に教えていただき,私の脊椎脊髄治療の第一歩となりました.さらに1995年からは,一人赴任病院で頭部と脊椎脊髄疾患という二足の草鞋診療が始まりました.頭部疾患は救急患者待ち状態でしたが,脊椎疾患は徐々に増えていきました.しかし,恩師であるMM教授(肩書きは当時,以下同)は私に「脳外科医なのだから頭は絶対に捨てるな」とおっしゃっていましたし,私自身もようやく脳動脈瘤のクリッピング術も自信をもって執刀できるようになった頃で,頭を捨てる気持ちはまったくありませんでした.ただ,年間百数十例の脊椎手術をすべて一人でこなす頃になると,頭部疾患には手が回らなくなり,この様子にMM教授から「ここまで来たら,脊椎で突き抜けろ」と言っていただき,私の同級生を頭部疾患担当として派遣までしていただきました.ちょうど,その頃より,どうしても顕微鏡手術だけでは対処できない疾患に突き当たることが増えてきました.それが1997年のRay先生のTFC cageによるPLIFとの出会いです.これがbreakthroughとなり,私の脊椎脊髄人生でPLIFは特別なものとなりました.
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