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「恐怖」という情動は,ヒトを含め動物が外界からの刺激に適応して生き延びるためにはなくてはならない脳のはたらきであり,「怒り」,「喜び」,「悲しみ」などほかの基本的な情動と同様に生まれながらにして備わっている。生後間もない頃の恐怖情動は万人でほぼ共通しているが,成育の過程でその対象は人によって異なってくる。例えば,多くの人にとって「犬」は愛しい存在であるが,別の人にとっては恐怖の対象であるかもしれない。そのような人は生まれながらにして犬を怖がっていたのだろうか。その人が育っていく過程で犬を怖がるに至る特別な体験がなかっただろうか。実際,経験によってそれまで平気だったものがある日突然恐怖の対象になってしまう,あるいは逆に恐怖を感じていたものがいつの間にか平気になるということは日常的に起こり得る。過去にヒトに対して恐怖を植えつける実験が行われたことがある。被験者はアルバートBという生後わずか9ヵ月の乳幼児だった。当初アルバートはラットを怖がることがなかったが,彼が好奇心からラットに触ろうとした瞬間に実験者がハンマーで鉄棒をたたいて大きな音を出す操作を繰り返すうち,アルバートはラットそのものを怖がるようになった1)。これは「リトルアルバート(アルバート坊や)」の実験として今でも心理学の教科書に引用されている。現在ではこのような実験をヒトに対して行うことは倫理的に許されないが,程度の差こそあれわれわれは日常生活の中で外界の刺激に対して「条件づけ」されている。
恐怖の対象を記憶し,その対象を見たときに恐怖反応を引き起こすのに中心的な役割を担う脳部位は大脳辺縁系に属する扁桃体(Amygdala)である。この部位を実験的に破壊したサルで起こる様々な神経症状(Klüver-Busy症候群)には,本来恐怖の対象であったものに対して何も感じなくなるという症状も含まれる。それでは扁桃体ではどのようなしくみで恐怖が恐怖と認識され,それが記憶されるのだろうか。アルバートで行われた「恐怖条件づけ」は,現在ラットやマウスの行動解析のためのテストバッテリーとして広く用いられており,しだいにそのメカニズムに関わる分子が明らかになってきている。本稿ではわれわれが作製し,いずれも恐怖条件づけテストにおいて異常が見出されたミュータントマウスの解析を中心に恐怖条件づけの分子メカニズムについて概観したい。
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