活動記録
—令和6年能登半島地震—精神看護専門看護師たちによるメンタルヘルス活動
瀧 めぐみ
1
,
長山 豊
2
,
武用 百子
3
1金沢医科大学病院
2金沢医科大学看護学部精神看護学
3大阪大学大学院医学系研究科
pp.402-412
発行日 2024年9月15日
Published Date 2024/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1689201323
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
- 参考文献
被災地からの患者を受け入れた病院で、メンタルヘルスサポートにあたったCNSの記録
被災地から多くの患者を受け入れて
令和6年1月1日16時10分、能登地方で最大震度7、マグニチュード7.6の能登半島地震が発生した。金沢市から少し北、内灘町に位置する当院の被害は軽微であったが、断水となり、液状化が発生した地域もあった。家屋全・半壊等1000以上で、内灘町で被災した職員だけでなく、能登で被災した職員も多数おり、看護職員の1/3を占めていた(当院ホームページ「能登半島地震における当院の活動」より)。
このような状況の中、当院は震災後から被災地および能登地域病院からの多くの患者を受け入れた。当院は、金沢と能登半島をつなぐ「のと里山海道」の入口に立地しているため、普段から能登地方からの入院・外来患者も多い。震災の影響でその「のと里山海道」は甚大な被害が発生し、緊急輸送道路でありながら通行止めとなった。陸路での搬送は困難な状況となり、早朝に能登地方を出発しても深夜に到着するような状況であったため、空路による患者輸送も併行して行われた。昼夜問わず多くの患者を受け入れ、ほぼすべての病棟の稼働率が急激に増えていたことで業務量も急激に増大し、看護職員は疲弊しながらも勤務を続けていた。さらにDMAT(災害派遣医療チーム)、DPAT(災害派遣精神医療チーム)、災害支援ナース、DICT(災害時感染制御支援チーム)、JRAT(日本災害リハビリテーション支援協会)などの災害派遣も始まっていたため、人員が普段よりも減っている状況だった。
Copyright © 2024, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.