連載 認知症の人とその家族から学んだこと—「……かもしれない」という、かかわりの歳月のなかで・第6回
認知症の人の家族によるケアリングを見続けてわかること
中島 紀惠子
1,2
1新潟県立看護大学
2北海道医療大学
pp.722-723
発行日 2017年9月15日
Published Date 2017/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1688200781
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優しさの質が変わったような気がする
認知症の人と家族の会(以下、家族の会)の仲間たちと出会ってかれこれ40年になるが、近ごろのメンバーの堂々とした優しさに、なんかひるんでしまう自分がいるように思えて仕方がない。私の、この曖昧な感覚を、「公的ケアシステムの編成に向けて新たなモデルを探求するには、ケア提供という仕事に内在する個々具体の特質に目を向ける必要がある」という考え*1に従って解くなら、その昔は、介護は家族の役割、女性の仕事、福祉制度が進むと、家族の情愛が薄れるといったことが、当たり前の世界のなかで認知症という病を抱える家族の苦しみを訴えることが、どんなに勇気のいることだっただろうかと思う。しかし、少数の彼らの勇気に励まされた仲間たちが少しずつ増え、同じような体験をした者たちの優しさに包まれるようにして、大勢の介護家族が救われてきた。
こうしたときを経て、いま、仲間たちが抱えているケアリングの圧力は、諸制度の充足と充実をより身近にすること、また、自主的に対処するにはあまりにも複雑多岐になったものに対し、自助組織としてどう立ち向えるか、といったことに向いているようである。私の奇妙なひるみは、どうやら、認知症ケアをよりフレンドリーな社会のなかで、といった方向に軸足を置いた仲間たちのきっぱりとした意思をもった優しさに向き合うときの、ちょっとした緊張にあるのだろうと思う。ならばなおのこと、「ケア提供という仕事に内在する特質」の変化に目を向けていく必要がある。
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